c71の一日

生活の記録

体罰と中学生

わたしは中学生と関わり合いがある。

わたしは、中学生の前では、学校の先生の悪口を言わない。
それは、先生に対する尊敬の気持ちが、わたしの中にあるからだ。
少しの人数を教えるのもたいへんなのに、大勢の人数を、時間内で、同じレベルになることを心がけて教えるのは、とてもたいへんだろうと思うからだ。

たとえば、歴史を教えるのでも、生まれたときから電子メールが当たり前だった人たちなので、昔の話をするのも一苦労だ。
使者を説明するのにも、「手紙を運ぶのにも人を送らないといけなかったんだよ」と話しても「あ!メールですか」と返ってくる。
例えば理科だと、オール電化で火を使ったことがない子だと、火を扱うことが怖くて、マッチに火をつけても怖くて放り投げてしまう(危ない)。ほとんど火を見たことがないのだ。

中学生というのは子どもだ。
体も細っこいし、いかにも成長の過程にあるという感じだ。
頭の働きは素早くて、わたしの古くなった脳みそよりもずっと回転が速い。
世の中のことをうんと考えているし、これから先の人生のことも考えている子が多い。
大人より大人っぽい。でも、子どもだ。
わたしはまじめなところが子どもだなあと思うし、そこがかわいいので、いつまでもそういう風にいてほしいと思う。

斜に構えていてもどこか純真だ。

それでも、そういう子たちを、殴る大人がいる。
血が出たり、けがをしたりしている。
そういう話はほとんど表に出ない。タブーだ。
ショックを受けるのは殴られた子だけじゃない。
その子の友達も、家族も、友達の家族もだ。
体罰というのは、単なる暴力だ。それを言い換えただけだ。
そんなひどいことを、勉強を教える人がするのだ。
勉強というのは、本来、人生の希望となるべきものなのに。
希望自体を奪うのだ。

話を聞く分には、中学生は、けっこういろんなことがわかっている。
しかるにしても、怖い先生でも、きちんとした先生のことは、心の底でどこか信頼しているし、尊敬しているような口ぶりで話す。それが、先生にも伝わっていてほしいなと思う。
殴る先生のことは、あまり尊敬していない。
体罰の基準がないのだから、暴力を振るうとき、それは先生の良心にしか基準がない。
ということは、その先生が、調子が悪いときや、いらいらしているとき、良心の基準が変わってしまうのだと思う。
それは、罪刑法定主義に照らし合わせても、間違った考え方だ。
仮に学校の中で、刑罰として体罰が存在するのなら、あらかじめ、生徒が、その運用に対して、知らなければ、暴力をさけるすべがない。そして、それは不可能だ。
校則で体罰の基準を決めるとしても、そこに生徒の意志を含めることは難しいだろう。
それは、教育するために、学校があることを考えると、民主主義を教える場であることも含めて、ふさわしくない。

それとは別に。
もちろん、わたしが話を聞いたのは、ほんの数人で、データが、ソースが、と言われたら、すぐに消し飛んでしまうような伝聞でしかないのだけど。
あの細っこい、成長過程の小さな子どもを殴るなんて、本当に許しがたいと思う。

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