c71の一日

生活の記録

母を捨てて父と出会う

自閉症スペクトラムの関係の本をいろいろ読んでいます。
読み終わったら、また、書こうと思います。


一度気になったら、どんどん目に入ってきて、ネットの情報も良く読むようになりました。


今日読んだのは
精神病新聞 家族を捨てる

わたしは、母を捨てるのがなかなかできなかったです。致命的なことが起きるまでは、母が死ぬかもしれないと思って、恐ろしくてできませんでした。

親に愛されてきた人が語る決定的に間違った毒親との関係


この記事です。

完全に離れるのは良い方法です。
そして母親は一人の間違った人間で、自分に害をなすと認識しましょう。あなたの親をあなたが育てる必要はありません。あなたが親を一人の人間として解放してあげる必要はありません。あなたの親は大人なのですから、自分自身で生きれるはずです。手を離して世話をやめても死んだりしません。大丈夫です。


わたしの父は、家庭を捨てて家を出た人です。


わたしはずいぶん長い間父と会いませんでした。父を許せませんでした。


今は、母から逃げた父の決断は正しかったと思います。人生は一度しかないので、父の判断はとても良かったです。


妹もさっさと家から出て、母を憎まないですみました。

わたしだけが逃げ遅れました。



だから、わたしは、自分を責めました。逃げれば良かったのに逃げなかったなんて自分で思っていました。逃げればよかったと、他人に指摘されると激高しました。


でも、わたしの母は、父に、わたしの情緒が不安定になるから、といって、父が出て行った理由を説明させませんでした。そして、なおかつ「なんで、お父さんは出て行った理由を教えてくれないんだろう?」と問うたわたしに「なんでだろうね?ひどいね。あんたの年齢だったらわかるのに、子どもだと思って、言わないんだろうね」と言っていました。


母は、わたしだけを囲い込みたかったのだし、それに全力を尽くしていたから、わたしは逃げられなかったんだろうなと思います。


そして、なにもかも破綻してから、とうとう、わたしは、母を捨てました。


そして、父に出会いました。


父は、わたしが入院してからも、態度を変えませんでした。
お見舞いにもきてくれたし、お金も払ってくれました。わたしを責める言葉は一度も言いませんでした。

わたしがどんなに父を責める言葉を言っても、一度も逃げずに、つきあってくれました。

声を荒立てることもありませんでした。
自閉症スペクトラムとわかってからも「そうは思えないけどな」といいつつ、受容してくれました。


思えば、精神科の主治医が、わたしの両親を二十歳のときに、それぞれ呼んだとき、父は仕事を休んですぐに駆けつけてくれました。母は、理由をつけていきませんでした。そのことに触れると、声を荒げて暴れて、私を責めました。

「そんな暇なかった」「わたしがどれだけ苦労してきたかあんたはわかっているのか」「だからいったでしょう」「あんたはそういうところがだめ」と言ってきたり、赤ちゃん言葉で話しかけてきたりしました。


当たり前だけど、落ち着きます。


たとえば、お葬式に出たらいいかどうか、とかも、相談したら、
「相手は喜ぶ」
「数珠はどこどこで買えばいい」
「洋服は光らない黒で」
「靴は黒で」
「バッグも買って」
「香典は5000円で」

と相手の気持ちと、具体的な行動を適切に教えてくれます。
父は自閉症スペクトラムのことを全くわかっていませんが、でも、実際には適切なアドバイスをくれます。
わたしのことをよく見てくれているのだと思います。



「やればいい」「普通わかる」「あんたはどうしてできないの」とかは挟まれません。


そういうのはとても安心します。




もっと、父のそばに早くくれば良かったと思います。


父は、わたしの書く文章にとても興味を持っていて、読んでくれます。
父と出会えてよかったです。