c71の一日

生活の記録

女性の発達障害特有の問題点について

「ボクの彼女は発達障害」は、さみしい本だと思いました - ある精神病患者の一日
助けてもらいやすい障害者と助けてもらいにくい障害者 - ある精神病患者の一日
踏んでいい当事者と踏まれない当事者 - ある精神病患者の一日
健常者の「おれは迷惑かけてないという謎の自信」はどこからくるんだろ - ある精神病患者の一日

愛はわたしを救わない わたしが受けている支援 - ある精神病患者の一日
だいぶ違うことがわかってもらえると思います。

論点

女性の発達障害者における支援は、DVになり得る場合がある。

とくに「拒絶する」という社会的スキルを持ち合わせていないため、「付き合う」ということ自体を理解しないまま、恋人関係に陥り、支援が生活を管理することとイコールになりえて、そこから逃げ出すことができない、または違和感を言語化できない場合がある。そのストレスを「毒舌」と受け取られる場合がある。
とくに、金銭管理についてのサポート、服装についてのサポートは、成人女性にたいしては、DVになりやすい。本人は被害を受けている自覚はないが、悪影響は大きい。
(いやがっている成人女性に対して、女友達を巻き込んでプレゼントしたあげく、それを着ないことにたいして怒るというのは支配になりうる。特に社会的スキルがない女性にたいして)
よかれと思ってしているサポートが、搾取、支配、DVになることは、大いにある。それは二次障害を招く。




最初に

ここ、数日、興奮して書き続けてきたことに決着がなんとなくついたのでまとめます。
今は夜中の三時で、ブログを書き続けていて、我ながらちょっとどうかと思いますし、くどいし、これは症状が悪さしているなと思いますが、それはそれこれはこれです。

最初は「ボクの彼女は発達障害」を読んでの感想から始まりました。
「性的規範が強すぎるのではないか」というのが問題の出発点です。
その後、「可愛い発達障害者(ここでは症状の出方が可愛いもの、というと語弊がありますが、チックや罵倒語、よくわからない体のゆらゆらとか以外の本人とサポーター以外には奇異に思われてもそれほどダメージが大きくない症状)」に焦点を当てすぎると、「可愛くない発達障害者(顔じゃなくてね)」はどうなるのか、または、恋人に、サポートしてもらうこと自体がはらんでいる問題はないか、などという考察(というか愚痴ですね)に移りました。




一言で言うと、可愛い発達障害者は、サポートを受けやすいけれども、搾取もされやすい、ってことです。


発達障害の女性を、サポートと称して、囲い込み、自立を妨げて愛玩することが可能だと言う危険があるわけです。
なので、愛メインのサポートというのは、危険をはらんでいるので、そこを賛美するのも危険だと思いました。




そしてですね、自らの経験をふまえると、わたしは発達障害者なんです。
社会的スキルが発達していないんです。そもそも。

今まで一番困ったことは、セックスを迫られると「ノー」と言えないことです。
断れないんです。
告白されても断れないんです。相手が嫌いでも断れないんですね。
強く言われると、言うことを聞いてしまう。
そしてその上ですね。「愛している」「守ってあげる」「心配しなくていいよ」と言われると、その言葉を鵜呑みにしてしまうんですよ…。
これが社会的スキルのなさです。普通なら高校生で断れますし、信じなくていい台詞ですよね。
でも、これ、鵜呑みにしてしまうんです。



相手のことが好きかどうかもわかっていないんです

発達障害があるから。


好きって気持ちがわかってるかもしれないけど、わかってない場合も多い。
言いくるめられたり、自己肯定感が低いせいで、好きだといわれたことに喜んでしまって、好きだと錯覚してしまったりといろいろなバージョンがあると思うんですが、わたしの場合、わかってない時代が長かったです。



付き合うということが、どういうことか知らないから。
言葉でも知っていて、概念でも知っているけど、いまいちわかってないところがある。


女性の発達障害者は、断れないんだということです。個人差はもちろんありますが、断れない人が多いようです。
これは悪用されることが多いのです。

鵜呑みにして、簡単に自我とかお金とか渡しちゃいます。
サポートしてる側にも、悪意がなくても、だんだん自我とかお金とかに侵入しちゃうと思います。
お金の管理が下手だな、とかね、不安に思ってるみたいだから話聞いてあげようとかね、いくらでも時間割いてあげるよとかね。

特に大事な点

はい、あれ、これ新しい病気が発生してるんじゃね…と懸命な皆さんはお気づきかと思います。
共依存とDVです。

とくに、お金の管理。着るもの。発達障害者ではなくても、人には着るもののこだわりがあります。着るものは、その人のアイデンティティを支えるものです。お金は人生を支えるものです。

それを簡単に否定してはいけません。

これは本人が失敗してもいいから、本人にさせないといけないです。
じゃなければお金の問題に関わってはいけません。

成人女性に対して、普通しないことは、発達障害者の女性にもしてはいけません。
とくに、社会的スキルがなくて、断る能力がなかったり、お金がどういうものか、理解していない相手に、お金の管理を手伝ってはいけません。お金のある場所を聞いてもいけません。
これって、当たり前ですよね?

発達障害だから手伝う、サポートするんじゃなくて、発達障害だから、してはいけないんです。



服装を、清潔にする、とか、肌の露出を少なくする、とか、体を覆っているもの、サイズの会っているものを着るべきだと教える、というのはいいと思います。
でも、それ以上のことは、「踏み込んでもいい間柄かどうか」を改めて考えなくてはいけません。
相手は、障害を持っているだけであって、成人している女性なのです。

子ども相手にするように教えてはいけません。
それは、危険な行為です。



これを書く前にね、何がどうというより、わたしは個人的な思い出がフラッシュバックして混乱していたわけです。
でもこれは、本当にありがちなストーリで、わたしは何度か繰り返して痛い目見ています。

最後に じゃあ、いったいどうすればいいの?

今受けてるサポートは、お金を使う失敗があっても、自分でなんとかしなさい、できる範囲でやりなさい、です。
お金を使うポイントは時々アドバイスしてもらいます。でも、管理するのはわたしです。
それが今までは違っていました。
責任のあり方が大きく変わりました。

サポートと言っても、いろいろあるわけです。
みっちり、きっちり、時間を割いてそばにいてあげて、安全を守ってあげる、やり方と、ストレスを軽減しながら世界と付き合っていくやり方をサポートすることと、でも、どうしてもできないことは代わってあげることができないか、探す、とかね。教える、とかね。


問題の本は、サポートの手段のバラエティが少なかったことと、サポートの動機が愛だったこと、またサポートの受け手が女性の発達障害者だったことから、わたしは不安に思ったのでした。その辺の微妙さについては、配慮が合っても良かったのではないかと。

特に、彼女の服装を変えさせようとするエピソードは本当に侵入的で恐ろしく、一件落着したあとはほっとしましたがけっこう危険な話だなと思いました。どうかしてたら、二次障害が起きていたかもしれない…なんて、当事者が一番わかっていると思いますけれども。(蛇足:でも、女性の服装にあれこれいうのは、相手が発達障害者じゃなくても、言ってはいけないです。それがいやなら、付き合わないことです)

最後に

教える、教えられる関係には、上下関係が存在します。
それは対等な関係とは言えないのではないでしょうか。
相手が、発達障害者であっても、対等である必要があるのではないでしょうか。


自分の恋人にお金の保管方法や使用方法を聞いたり、洋服をプレゼントしたのに着ないことに腹を立てて怒ったりするのは、正常なことでしょうか。
発達障害者の女性というフィルターなしに、一回冷静になってほしいと思います。



そしてですね、「可愛くない症状が出ている発達障害者」もいるわけです。
「清潔な服って?」「わたしが嫌われてるから退院したい!人に迷惑だから!ギャー!(パニック障害の人がうずくまる)ほら!わたしのせいでしょ(大声)」みたいなひともいるわけです。悪い人じゃないのに。悪い人でもかまわないけど。

そういう問題についてもっと掘り下げてくれたらうれしいな、と思います。

これで落ち着くといいな!わたしが!