c71の一日

生活の記録

自分らしく生きることになんの意味があるのか

わたしは、以前、自分さえ我慢していれば、周りの人が幸せになるものだと思っていました。
だから、自分らしく生きるよりも、人の言うことを聞いた方が良いのだと思っていました。


また、間違ったり、失敗したりすることをとても恐れていました。
人の言う通りに従っていたら、失敗しないのかと思っていました。自分の思う通りにして、失敗するとひどく非難されたからです。人の言う通りにしても失敗して、ひどく非難されることもありましたが、なぜかそのことには思い至りませんでした。怖かったからです。


でも、それは間違いでした。自分らしく生きることの方がずっと良かったです。失敗しても、たいていの失敗はたいしたことがありませんでした。
わたしに、失敗が大きなことだと思い込ませるような人と、一緒にいたこと自体が間違っていました。


自分らしく生きることに、なんの意味があるのか分からない期間が長かったのですが、最近、わかった気がするので、そのことを書きたいと思います。


自分らしく生きることが、どうして大事なのか、自分を大切にすることがどうして大事なのか、ずっとわからなかったのですが、最近わかったような気がします。今までは、大切にするような自分ではないと思っていたのです。


以前、わたしの前で、死ぬと言った人がいて、その人は、わたしがその人の思う通りになれば、死なないと言いました。だから、わたしは、その人が死ぬくらいなら、自分がなくなった方が良いと思いました。別にその人のことは好きでもなんでもありませんでした。


そういう人は、少しずつわたしの周りに集まってきて、わたしはなんだかよくわからなくなりました。そういう状態が続いて、わたしは病気になりました。


最初に、それをはじめたのは、母のためだったと思います。


人の言うことを聞きすぎて、そもそもなんのために生きているのか、わからなくなりました。


生きていることが苦しくて、つらくて、だから生きていることをやめたいと思い、でもそれはできなかったので、感じたり考えることをやめたくなりました。そうしたら、そうなりました。


いつも、自分が自分でないような、頭より一メートル上に目があって、それで世の中を見渡しているような不思議な感じで、体の表面に膜が張っていて、その内側にわたしがあるような感覚です。その膜の中にわたしは守られていましたが、鈍くなっていたので、危険な目にもたくさんありました。


危険を感じるアラームが作動しにくくなったり、アラームに逆らって、周りの状況に同調するようになっていたので、自分の身を危険にさらしていました。
そもそも、その頃には、自分を大切にするのはなんのためかわからなくなっていました。

生きることが苦しくて、自分なんて、どうなっても良いと思っていたので、周りが幸せになるために自分がなくなっても良いと思っていたので。


でも、それにしても、生きることはどうしてこんなにも苦しいのだろうと思いました。


あるとき、病気で、からだが言うことを聞かなくなりました。それで病院に行ったのです。


わたしは、薬を飲みました。


体が動くようになりました。でも、わたしの心は、ぼんやりしたり悲鳴を上げたりしていました。


わたしは、なんとか働き始めました。働き始めたとたん、世界に色がつきました。
働くことは、自分にあっていたようです。


お金を使ってみました。最初はおそるおそる、だんだん大胆に、最後には、勢いよく。


そして、ようやく、お金の価値がわかりました。お金は、自分が欲しいと思ったものを手にするための道具でした。欲しいものが最初はわかりませんでしたし、お金を使うことは苦痛でしたが、だんだん楽しくなりました。


「生きているってこういうことか」と思いました。


自分が心地よくすること、いいにおいの香水をつけること、マニキュアをすること、髪の毛の手入れをすること、化粧水をつけること、良いにおいのオイルで手足をマッサージすること、マッサージ屋さんに行くこと。


からだの感覚が少しずつ取り戻されて、膜がなくなっていきました。



「自分を大事にするって、気持ちが良いことなのだ」とわかってきました。

そうしたら、「なぜ自分は生きているのか」を考えなくてもいいのかもしれない、と思いつきました。


お金が欲しくなりました。だから、仕事をたくさんするようになりました。
少しずつ忙しくなって、自分がいかに苦しくて、いかにつらくて、なんのために生きているのかわからない、ということを考えなくてすむようになりました。
わたしは、きちんと食べるようになりました。体調を一定に保ち、いつも調子良く働くためです。働くのはお金を稼ぐためです。お金を稼ぐのは、自分が心地よい生活を保つためです。心地よい生活をするのは、自分が気分よく生きるためです。働くと、税金を納めることができるので、困っている人を助けることもできます。働くこと自体でも、人を助けることができます。その方が、自分を殺して、誰かが一瞬生きるよりも、ずっと有意義なことだと思いました。わたしは、人の役に立つと嬉しいようです。嬉しいことは良いことです。


わたしは、次第に、なぜ生きるのか考えなくなりました。それはありがたいことでした。死にたいとか、死ね、とか、お前には何の価値もないのだから、生きている資格はないとか、お前の話はつまらない、みんなお前にうんざりしている、という頭の中の声が止みました。



わたしが、閉じ込められていたとき(抽象的に)、しばらくぶりに外に出て、外の空気と風を感じたとき、汗にぬれた体の表面が、さっと乾いてすっきりした感じがしました。八月の葉っぱの香りがしました。雨上がりの湿気が地面から立ち上って、暑く、そして、涼しい風が吹いたのです。


わたしは、そのときに、生きるって良いことかもしれない、とぼんやり思いました。目が覚めた気分でした。

わたしは生きていると思いました。

自分で、自分を選択して、自分の人生を生きることは、自分の苦しい生を考えなくて良いことです。
わたしは、考えることこそ、素晴らしいと思っていました。それは間違いでした。



わたしは今でもいろいろなことを考えます。
でも、それは、いつも具体的なことです。生徒さんを喜ばせたいとか、お金を稼ぐ喜びや、そのお金でプレゼントを選ぶ楽しみや、そういうことです。

自分を殺しても、本当にわたしを愛する人は、幸せになりませんでした。
わたしを殺して幸せになる人たちは、幸せにする価値のない人たちでした。
その人たちは、自分で、自分の力で、自分を幸せにするしかなかったのです。わたしの手伝えることはなかったのです。


わたしが生きていると、喜ぶ人がいることがわかりました。そういう人がいて、良かったと思いました。
自分らしく生きることには、自分を心地よくして、居心地よくして、死にたいと考えなくても済む時間を増やして、わたしを大切に思っている人が、わたしを心配せずに生きる時間を増やす効果がありました。


だから、わたしは自分らしく生きることに意味を感じるようになりました。