c71の一日

生活の記録

普通じゃない脳

わたしは、普通になりたいと思っていました。
なぜならば、普通は良いと言われていたからです。

実際には勉強ができるとか運動ができるとか性格がいいとかすると、褒められましたが、その一方で、迫害もされるひとが多いようでした。
埋没することに全神経を注いで、すべての能力を使い果たしているひとも多いことから、普通はそれほど価値があるのだろうと学んでいました。


けれども、わたしは、実際のここの事案になると、埋没するための努力を放棄することが多かったです。
そのせいで、迫害されることが多かったです。

わたしは勉強ができる一方で、社会的常識に疎く、運動能力もあまり高くありませんでした。勉強ができるせいで、実際には情緒面が幼かったのにも関わらず、ちゃんとしていないのは、努力不足と見なされました。


わたしは、それがつらかったです。
発達障害者を見抜けるというひとには、多く出会いましたが、わたしを発達障害だと見抜いたひとは、いませんでした。お医者さんが検査しただけです。

思うに、素人が、あのひとは発達障害に違いない、というのは占いにも似て、百害あって一利なし、というところだと思います。
ただ、ヘルパーさんも言っていましたが、発達障害者向けの言い回しは、バリアフリーにも似て、定型発達のひとに対しても、有益ではないかと言うことでした。つまり、禁止を抽象的に言うのではなく、具体的に指示する言い方は、定型のひとのコミュニケーションも円滑にするのではないかということです。



コンビニで働いているシフトが同じYさんは、「冗談じゃないよ」が口癖で、皮肉っぽくて優しい女性です。手を抜くところがしっかりしていて、安定した接客ができるコンビニのプロです。あんな素敵な女性が、時給七百円から八百円で働いているとは信じられないほど有能です。気が利きますし、頭が良く、状況を見るに敏で、ゆっくりした動作に見えますが、最小限の動作でレジをするので、回転が速いです。彼女は、知って知らずか、わたしに具体的に指示します。何時に、何をするか、何を何本揚げるか、ぞうきんをいつ洗うか、など。
もう一人、次のシフトの女性も、具体的に指示をだしてくれ、わからないときには、初めてだったり、二回目だから、しかたないよ、と慰めてくれ、そうでないときもさりげなくフォローしてくれるひともいます。厳しいひとは、わたしの雑なところを観察して、教えてくれます。

わたしの働いているコンビニは、比較的、発達障害のひとに対して、バリアフリーな職場です。しかし、コンビニ自体は、二つ、三つの作業を同時にこなさなくてはいけないので、バリアフリーな職場ではありません。



わたしは普通ではありませんでした。
脳自体が、普通の人とは違っていたのです。
だから、感情や情緒、しぐさなどが、普通の人とは違っていました。
いくら努力しても、普通の人にはなれなかったわけです。

そのことを受け入れるのは比較的容易でした。

わたしなりの葛藤や苦しみはありましたが、仕事についてしまえば、消散してしまうようなものでした。
なぜならば、定型の普通の人と見られる人たちも、案外幸せそうに見えなかったからです。


良い大学に入っても卒業しても、大企業に入れるのは、宝くじに当たるようなものです。大学に入るのは宝くじを買うようなもので、当たることは保障していません。
そのことを、わかるまではたいへん苦しみました。

そして、大企業に入っても、それが良い企業だとは限りません。また、良い企業だとしても、自分にあった業務に配属されるとは限りません。みんな、適応力が高いので、なんとなくこなせているだけです。でも、真の喜びを持って働けるひとは一部のようです。


わたし個人のことを言わせていただければ、普通をあきらめた後は、案外幸せで、太ったことを除けば、体調も良く、仕事も自分にあっていると思います。


仕事が自分にあっている、ということは、わたしにとって、とても重要なことでした。それがわかるまではとても苦労しました。
そして、仕事があっていると、障害の苦労も、和らぐように感じます。それは、上司や、先輩の相性も大きく影響しているので、業種がすべて影響しているとはいえませんが、それでも、自分の能力を生かせるというのは快いものです。



普通の人が普通になっても、幸せになることが難しいのに、そもそも脳が違っているわたしは、普通に対してハードルが高く、その上で普通を目指してから、幸せになるのは、迂回しているのと同じで、とても難しいようです。




軽トラさんとデートすると、とても眠くなります。
以前はひとと二時間いるだけで、うつろになりました。
その状態が和らいだとはいえ、一日人間といるのは、とても疲れます。

軽トラさんといるのが疲れるのでなく、軽トラさんが人間だから、疲れるのだと気づきました。

でも、それはたいしたハードルではありません。彼は比較的ユーザフレンドリーな人間だと言えるでしょう。

なぜならば、歩み寄る気があるので、わたしが多少奇異なことをしても、そういう人間なんだなあと深く考えないからです。深く考えないのは、美点だと思います。彼が悩んでいるのは、自信のなさ(自分に対する自信のなさではなく、わたしが彼に対して好意を持っているかどうか)などや、わたしが退屈していないかなのです。


したがって、わたしが苦労しているのは、自分の障害そのものではなくて、わたしの障害と対峙する他者との関わりによるものが大きいのだと思います。


わたしが発達障害だと知らなくても、気づかなくても、コンビニのYさんや、軽トラさんのように、わたしが過ごしやすい環境を知らず知らずのうちに提供してくれるひともいるし、そうでもないひとももちろんいます。


わたしができるのは、そうしてくれるひとと一緒にいることを選ぶこと、運命を受け入れること、そして、ささやかに世界を変化させようともくろむことの三つです。


追記:題名は、脳がふつうじゃないの、を圧縮しただじゃれです。各自笑うように。