c71の一日

生活の記録

これが社会人の意味など、断固反対だ

無職になり改めて感じる「社会人」という言葉の曖昧さ - ぐるりみち。


会社に所属している人だけが、社会人なんて、断固反対だ。
そして、会社に所属しているからと言って、その人が常識的だということは決して担保されない。


わたしは社会人であることは、大人であることの責任、子どもに対する責任を果たせる人のことだと思う。


わたしが会社に勤めていたとき、社会人らしかったかというとそうでもなかったと思う。
なんとなく甘えて生きていた。緩かった。組織と言うものが、生暖かかった。気持ち悪かった。

今ははっきりいている。時間で働いている間は、きっちり仕事をしておこうと思う。その方が時間がつぶれて楽しいからだ。


評判が良くなって、仕事が回ってきやすくなって、自分が得をするからだ。
そのからくりがわかったときに社会人になった気がする。


病気だったり妊娠していたり子どもを産んで働き先がなかったりする人が、社会人じゃないなんて誰が言えるんだろう。
そう言うことに対する、想像力のなさの方が、社会人としての資格を問われるのではないだろうか。


生きていたら前に出るし考えるし行動しないと楽しくない。楽しくなくても平気だったり、それでも良いと思うんだったら好きにすれば良いと思う。


社会人の意味は働け、という、他人に規定されたものではないはずだ。
自分や自分の人生に責任を持つ、ということだ。
わたしはそう思って生きている。


それができなかった時代、わたしは暗かった。
病気もひどかった。
生きる意味が見えなかった。他人任せだったからだ。


他人任せで、誰かが良い風に自分をうまく配置してくれるだろうと甘く期待しているうちは、社会人ではない。
自分の限界を知って、できることを探して、自分なりに幸福を追求していくこと(もしくはしないこと)が、社会人、大人、ということだ。