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c71の一日

生活の記録

”普通の人”のつらさの重み

昨日書いたエントリにブックマークがついた。


わたしは自分の感情に敏感で、他者の感情に鈍感らしい。

それはその通りだ。そういう障害があるのだから。
そういう障害があるから、自分の感情に敏感で、他人の感情に鈍感なのだ。わたしにはどうすることもできない。自分では「人の悲しみに対してブログの記事を書いたのだから、少なくともブログを書くぐらいには人の感情に興味を持っているのだろう」と思っていた。


自分の感情に敏感で、他人の感情に鈍感なことは悪いことだと思わない。
できないことを悪いと思っても仕方がないのもあるけれど、自分の感情に鈍感で、他人の感情に敏感なよりも、自分にとっては良いと思う。わたしには、他人の感情がわからないのだ。考えてもわからない。だから、ブログを書いて、自分の感情を開陳して、他人の感情に触れようとしている。わたしなりに努力している。



わたしは自分のことを普通の人だと思っていた。思いたかったから、自分が変だということはずっと認めずにいた。だから、普通の人として生きるつらさはそれなりにわかっていると思う。
なにしろ、わたしは自分に障害があることを未だに疑っているのだから。


障害があっても、普通の人としての苦しみが減るわけじゃない。わたしには普通の人としての一面がある。働いているし、職場の人との付き合いもある。恋愛もしている。十分普通の社会人としての役割を果たしている。だから、障害者としてのわたしとしての苦しみだけではなくて、「障害のない面」についての苦しみも自分の中にあるつもりだ。



わたしには能力的にでこぼこはあるものの、知的な能力の障害はない。だから、感情的、社会的な発達の遅れを補うことは可能ではないかと考えている。実行もしている。するしかない。人間付き合いからは逃れられないし、障害をカミングアウトしているわけじゃないから、みんなわたしを普通の人として扱う。わたしが障害を自由に発揮しているのはこのブログの中だけだ。


知的能力を使って、感情面や社会面を推理して、ふさわしい態度を暗記して実行しているつもりだけれど、もともと持っているはずの能力の代用なので、それなりの疲れ方はする。そして、現実はいつも流動的なので、初めて遭遇する場面では、うまく反応できない。


たとえば、今日、わたしは教師交代になった。それは、生徒さんと親御さんに気に入られなかった、と言うことを指すので、結構がっくりする。収入も減る。死活問題だ。それは、”普通の人”としての苦しみだと思う。

そして、「なぜ気に入られなかったのか」を思うときに「障害があるから、場面にそぐわない不適切な発言や態度を取ってしまったのかもしれない」という選択肢がわたしの中で生まれる。それは、わたしが障害を持っているからの不利な面だ。



精神的に不安定でもある。”普通の人”がわたしと同じ程度に精神的に不安定なのだったら、それは病気だから、悪いことは言わないので、精神科に受診した方が良いと思う。わたしは自分が”普通の人”のつもりだったときに、精神科を受診している。だから、わたしと”普通の人”に、精神科を受診する敷き居の高さに差はなかったはずだ。



発達障害は、雑に言うと、精神的に幼い、ということだ。うまく社会的に発達できていない。だから、大人として行動できないし、社会的に期待されている役割を遂行できなかったりもする。
だから、障害がわかってから、わたしは自分自身に対して、ハードルを下げた。


”普通の人”の苦しみは、自分自身に対するハードルの高さからも生まれている気がする。わたしが”普通の人”だった頃、わたしは自分自身に対するハードルがとても高かった。自分に期待していた。良い会社に就職して、五年くらいしたら結婚して、家事分担できる相手と、家庭と仕事を両立する人として働く、そして、勉強も続ける、などと考えていた。


でも、それはうまくいかなかったので、とても落ち込んだ。恋人とはうまくいかず、別れて、未練たらたらでやけっぱちになったりもしたし、仕事もうまくいかなかった。人間関係も、良い友人に恵まれていたけれども、世話をかけすぎて、愛想を尽かされたりもした。



まあ、しかたがないな、失敗してもしかたがないな、と思えるようになったのは成長だ。これは”普通の人”っぽい思考だ、と思って、自分で気に入っている。


”普通の人”が、仕事や人間関係で苦しんだり、恋愛がうまくいかなかったりして、苦しんでいるのは知っている。知っているけれど、わたしはその人になれないので、本当にはその気持ちがわからない。想像するだけだ。想像して、考えるけれども、あまりここには書かない。それは、書いてもしかたがないからだ。



”普通の人”なんて、いない、とも言えるし、いる、とも言える。誰でもマジョリティとしての一面があるし、マイノリティとしての一面がある。それはその人が抱えているもので、わたしは何も言えない。


わたしには、わたしが抱えているものの重さしかわからない。他の人と比べられない。わたしから見てうらやましい人がわたしよりもずっと苦しんでいる、ということはよくあるはずだ。わたしをうらやむひともたくさんいる、ということもわたしは知っている。わたしには持っているものがたくさんある。持っていないものもたくさんある。


でも、わたしには見えない。その人はきっとわたしにそれを打ち明けるほど親しくない。そして、わたしは言葉で言われないと気づけない。

”普通の人”のつらさの重みも、”障害者”のつらさの重みもわからない。


質も違うし、取り出すこともできない。”障害者”の人にも、”健常者”の一面がある。健常者の人にも、病気の一面がある。
そういう風にわたしは考えている。

視野が今よりもさらに狭かったときに、人のことをうらやましがってばかりいた。その人なりの苦しみがあると言うことを知ったのは最近のことだ。


わたしの成長は他の人よりも時間がかかるらしい。そういうものらしい。検査で結果が出たから仕方がない。

だから、わたしの視野が狭いことに対しては、大目に見てほしい。それは、わたしが障害者だからじゃなくて、ただ単に、精神的に未熟な人間だからだ。それは、引っ張れば伸びるものじゃないので、そっとしておくしかない。


そういう風に、わたしは自分のことを思っているし、他人に対しても思っている。


お互いに、あまり期待しない方が幸運だ。

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