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c71の一日

生活の記録

わたしは家事がすげー下手だってことと、介護の話


その家事が、誰にとってのメリットがあるのかを考えること。 - スズコ、考える。


このエントリを書いた方は、家事に関して(たぶん)わたしより優秀なんじゃないかなーと思います。

見たわけじゃないからわからないし、家族がいる分苦労しているだろうし…でも思ったことを書きます。


わたしは家事ができないです。苦手です。ヘルパーさんにきてもらっています。


わたしの問題点を書きます。


部屋が散らかっていることに鈍いです。まずこれ。


メリット、デメリットということを理解できません。
自分に取ってのメリット、って何かがわからないのです。
得とかね。わかるときとわからないときがある。
正しいとか正しくないとかは理解しやすいんだけど。

理解できたからと言って、できるとは限らないのも困っていることのひとつですが。


そして、部屋の散らかり、台所の混乱(混乱と表現したところに情緒を感じてほしい)、閾値が越えるまで何もしません。何をすれば良いのか、何をしたら部屋が片付くのかもわかりません。(最近脱いだコートをハンガーにかけることを覚えました。そのレベル)


でも、散らかっているのはいやです。だんだん気分が悪くなります。意識しない中で、何かが圧迫されます。


最終段階では、途方もなく散らかっているので、何をどうすれば良いのかわからないし、ものに居場所が決まっていないので、どうすれば片付くのかわからないのです。


(今は場所を移すことを片付けとしています)


お皿を洗うのも苦手だし、洗濯物も畳むと手が痛い感じがするからしたくない、できないし、分別も苦手です。頭が混乱してパニックになります。
この時点で、病気が悪化します。

だから、片付けていない部屋は人体に悪影響があるなあという実験を期せずしています。



わたしは常識もないので、お客さんが来るときには片付ける、という意識が乏しいです。知っていることは知っているのですが、あまり実行できない…。でも、恥ずかしいという感情はあるので、のちのち恥ずかしく、惨めな気持ちになり、消え入りたくなって、精神状態が悪化して頓服を飲みます。


服も脱いだままにしています…。今はお風呂場に脱いでいます。そしてそのままにしています。とりあえず。
一度着た服をタンスに入れて良いのかわからないからです。


わたしには散らかし終わるまで、片付けるメリットがわからない、ということもあるし、精神的体力もないから、綺麗な部屋を維持する、ってことがかなり難関なのです。片付け方もわからない、料理の仕方もわからない、お皿の収納の仕方もわからない、わからないづくしです。



だから、もしも同居する人ができた場合、「散らかしたなー片付けたいけど片付けられないなー、あ、同居人が片付けてくれた、ラッキー」と思ってしまうか、悪ければ「あの人は片付けるのが好きなんだな…。わたしも快適になるしいいことづくめ」とか思ってしまう可能性があるのです。


行き着く先には、同居人のカサンドラ症候群!!!!



わたしは空気を読むことが苦手ですし、社会的発達というものが欠けているので、その辺を自主性にまかされると、できないままです。できないし、迷惑をかけている自覚もないし、自分が困っているのに、なにもできないで、そのまま病気を悪化させてしまう…ということを繰り返してきました。



だから、できる人が「自分のメリットに沿ってやってもらうことにし、自分もそうしよう」と自己完結されると、たいへんに困る、困るわけです。



想像力がないから、どのくらい迷惑をかけているのかもわからない。作業量の見積もりもできない、かといって、自分がやります、と言い出せるだけの気遣いもできない、ないないづくしーの、人として最低の自分が露出するだけなのです。まあじゃあ、やれよ、って話なんだけど、できないんだもん…。


ここまで、読んできたひとは「家事ができないってどういうことなんだよ。できようとできまいとやるんだよ」と思うか、できないってどういうことかわからないと思います。


わたしも自分が塾講師をするまで、できる人とわからない人の差がわかっていませんでした。

勉強に関してのことだと、わたしは勉強ができます。だから、できない人の気持ちはそうぞうでしかわからないです。そういうことなんだと思います。

塾講師をするまで、できない人っていうのを想像はしていたんですけど、やっぱりどこか何かの冗談というか、やらないだけ、とか思っていたんですよね。


でも、そうじゃないのですよ。
怠けてなくても、そうじゃなくても、できないときはできない。
心の問題だったり、頭の成長の度合いだったり、いろんな状況があって、はじめてできるようになるし、訓練の方法も知らない人には教えないといけない。

わたしは教えられなくても教科書を読んで、自分なりに法則を解釈して、覚える点を最小限にまで整理し、なおかつ問題のパターンを理解するまで解きこなして、パターンごと覚え、ということができましたけれど、できない人の気持ちを実際にインタビューするまでわからなかったです。自分で考えればできる、って思っていたことを教えると感謝されるしお金になるんだ、ということを自分の得意な分野ではじめて知りました。


できない間は、できないんですよ。それをできるはず、と責めても、何も良いことがないと仕事で学びました。



なので、わたしが家事ができないのは、できないんであって、なんでできないのか、とか、本当にできないのか、とかそういうことを詮索することは大事じゃないと思います。


何が大事なのかと言うと、勉強が苦手な人でも、ポイントを教えれば、わかるようになって成績が上がります。もともとできる人もいるし、教えられることでできる人もいるし、強制的に、宿題を出されることでやる気になる人もいるし、自主性にまかされた方が実力が出せるタイプもいて、さまざまだ、ということなのです。



わたしは、だから、家事をある程度分担して、メリット、デメリットがなくても、生活の場を共有するときのルールとして、分担する、っていうのは大事だと思うんです。じゃないとできるようにならないから。塾のことを応用して考えると。


わたしは今ヘルパーさんに家事を習っています。布団をかぶって逃避しているときもあるけれど、作業の様子を見学して、自分なりにやったり、皿洗いにチャレンジしたり、少しずつ成長しています。ゆっくりだけど。(発達障害でも成長はするのだ!定型発達と違いはあるけど)



そして、社会的な側面を考えるのも大事だと思うんですよね。わたしの時代は男女関係なく勉強を優先させ、お手伝いをさせないブームがきていたと思います。家事に対する当事者意識がなかったのと、社会的発達が遅く文字通りにしか話を理解しない性質が災いし、「お風呂見て来て」「見た」(そしてあふれる風呂)「お風呂栓をして来て」「はい」(栓だけしかしない)「鍵見て来て」(見てくるだけ)などを繰り返したという過去があります。



教えてもらえないからってできないのは甘え、必要に迫られればできるようになる、っていうのは、できる人の話ですわ…。


という話を生徒さんから何度も聞き、最初は信じられなかったものの、信じざるを得ない現実を知りました。
教えてもらわなくてもできる人ばかりだったら塾いらないし、必要に迫られても勉強できない人はたくさんいる…。

そして、分野さえ違えば、「わたしもできないことがあるのは甘えじゃないんだよなー」と思うようになったわたし。あまり自分を責めなくなったですよ。



わたしは動作性が悪いので、家事などの動作を伴う動きが苦手です。
何をどうしたら良いのか、何処に置いたら良いのか、脳みそが動かない感じなのです。



家事に関してはできるようになる、というのはおかしい。


できないものはできない、と言いたい。


そして、常識とか空気読むとか社会的に見せていい部屋とかそういう価値観が最初から育つような人には、教育がいらないかもしれないが、わたしのような人にはいる!!!!身だしなみすらわたしはダメだから!



そして、社会構造的に、家事しなくていい立場、とされてきて、当事者意識の薄いまま育って来た人って、実際存在していると思うので、そこについても議論するのはいいんじゃないですかね…、って思いました。それも必要なことじゃないだろうか。それないことにしたら、結局、孤立しちゃうんじゃないんですかね、と思います。

わたしはすげー家事ができないし、ヘルパーさんにきてもらっています。
ヘルパーさんは全員女性で、みんな家事については、自分ちの技術を使ってくれています。
主婦業のプロの技です。
それに関しては研修がなかったと言っていました。
個人によって違います。


そういうのを見ると、社会的要因は関係ない、とか言えないんじゃないかなあと思います。
社会的要因があったから、わたしのヘルパーさんが全員家事のうまい主婦経験のある女性、ってことになるんじゃないだろうか。介護、って分野の職業が出たから、主婦業にお金が発生するようになったからよかったものの、そうじゃないと、日の目を見なかった技術がたくさんあると思います。


彼女らの知識、技術の蓄積は素晴らしいものがあります。
でも介護は安くて過酷だそうです。


これも、安く家事能力が買いたたかれている一面で、社会構造なんじゃないでしょうか。

もっと給料を上げたらいいのにと思います。

じゃないと、介護業界が衰退して人がいなくなったら、結局利用者が困ります。


今、介護関係、福祉関係は利用できることがどんどん減っているらしいのです。



これも、介護にお世話になる可能性のある人、つまりみんなが考えなくてはいけないことだから、介護ひとつをとっても、家事能力の有無、は貧困と直結する話だから、メリットがある人だけがやればいい、ってことにならないと思います。家事能力が乏しいと、体力も落ち、精神的にも参っていき、貧困の原因になることもあるでしょう。また、極端に、家事能力がないと、家事介助の人のすごさがわからなくて、どのくらいお金を払えば良いのか、真価が理解できないと思ういます。


そして、当事者意識を持って、家事全体を管理している人が、それだけの大仕事をした上に、家事をやってあげて、ちょっと手伝ってくれた人に感謝の気持ちを抱く、っていうのは、ちょっとバランスを欠いているのではないか…と思いました。

それは関係として歪んでいるんじゃないだろうか、と思います。
(よその家庭にものを言うことになって申し訳ないです)



つまり、「勉強できないんだ、わたしにはできるよー。メリットが理解できたら、すればいいんじゃない?できなくても、代わりにわたしがやっておいてあげるし、ものごとも代わりに考えてあげるよ」というのとはちょっとずれたたとえか…。でもうまいたとえが思いつきませんでした。


終わり。