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c71の一日

生活の記録

たぶん社会にまざりたい

しつけをするのは、大切なことだ。
犬にしつけするのも、子どもをしつけするのも、同じ目的のためだ。
社会に混ざって快適に生きていくためには、社会のルールに沿った行動をとる必要があるからだ。
社会の中で生きていくためには、社会のルールを知る必要がある。
それには苦痛が伴う場合があるけれど、反社会的に生きるよりも楽だ。



ルールを知らされていない状態は、目隠しで目的地に着くことを求められているのと同じことだ。


それはそうとして、わたしは、目的地がどんなところか、そして、どこにあるのかを知っているんだろうか?そして、そこにたどり着きたいんだろうか?と、疑問を抱いた。




わたしは「社会」というものがわからない。社会の定義は知っている。
だけど「みんな」が一生懸命それに埋没しようとしているのは、「社会の理念」に共感してやっているというよりも、トラブルを避けたり、恩恵を受けたがっていたりするからに見える。


だから、みんなの思っている社会とわたしの思っている社会には齟齬があると感じている。
みんなが、誰かもよくわかっていないけれど、とにかく、多数の人と感じ方が違うように思っている。


みんなが協調や埋没や自分を抑えることによる、その恩恵がわたしにはわからないし、トラブルを避ける、ってことがどういうことなのかわからない。
わたしは抑えようとすると、鬱状態になるし、パニックになるし、不安になってそれができない。自分じゃなくなるようで、恐ろしい。
トラブルはわたしだって避けたいけれど、避け方がわからない。
避けるには埋没すること、気を使うことが必要なようだけど、わたしにはそれが「できない」。


どこかに、わたしの知らないところに楽しいところがあるような気がしている。わたしはそこに混ざれないんだって思いがある。秘密のグループにみんな加わっていて、わたしのわからない楽しみ方をしている、裏のルールのあるゲームをしているんじゃないか、と思うことが良くある。



社会って具体的にどんなものかわからない。
わたしの半径一メートルの社会のことだって、雰囲気は少しはつかめるものの、本当にはよくわからない。わたしが一番生き生きしていられるのはネットの中だ。もしくは勉強の中だ。



ネットの中では複雑なことがない。わたしは言葉をうまく使えるから、わたしは強い。
ネットでは言葉でコミュニケーションすることが多いから、わたしは強い立場でいられる。
人に感心されたり褒められたりする。
わたしは考えることが上手だ。
わたしは言葉のルールを知っている。だけど、ネットは社会の一部だ。だから、ネットのルールを全部知っているわけじゃないわたしは、時々つまずく。


わたしにはネットのできごとの方が現実みたいに感じる。
感情を強く動かされる。



他の人みたいになりたいと思うことがある。
だけど、他の人、普通の人、ってどんなことか検討もつかない。
全然違うので、どんな感じなのか想像ができない。
なりたいものをイメージしてそれを目指す、ってことがそもそもできない。
具体的にイメージできない。普通、ってものが、なりたくても、遠すぎてわからない。
普通ってのは本当はないんだ、って言われることもあるけれど、わたしがある基準からずれているのは確かだから、その基準からずれていない瞬間を味わってみたい。

小さい頃から普通じゃないと言われて来た。だから、普通じゃないんだ、って言ったら、普通の人ほど自分のことを普通じゃないって言う、って言われた。だから、わたしは「普通なんだ」って思ったら、自分を普通だと思う人は変わっている、と言われた。


印象的なのは、中学生のとき「自分が新しいと思ったことは、珍しくも何ともない、ということを知るべきだ。これは変わっている、と思えば思うほど平凡なんだ」と教師に言われたことだ。


だけど、それは間違っていて、わたしは彼よりもずっと独創的だった。わたしは変わってる。


わたしは社会に混ざれていると思うときもある。
仕事をしているから、仕事を通して社会と混ざってる。ヘルパーさんと会話する。マッサージ屋さんに行く。買い物をする。社会と接点があるというのはそういうことだと思ってる。


わたしには社会からはみ出している部分がある。社会ってずいぶん狭量だと思う。
社会の機能を果たしていない。
社会って人類が繁栄するための戦略だから、今現在の弱者が、いずれ適者になることを見越して存在させておく余裕がないと社会の意味がない。だけど、そういうことを考えて、不適合者が生きられる社会をって言うのを最近は聞くけど昔はあまり聞かなかった。


たぶん、社会に混ざりたいんだと思う。強くそう思う日もあるし、でも、社会の方がわたしにふさわしくない、魅力のないものだ、と思うときもある。


でも、結局、わたしは社会の一部になってる。生きてるだけで社会の一部になってる。
疎外感を感じるときもある。
悪い意味で、社会の一部になっているときもある。利用されている。わたしは疎外されているときがある。

疎外感を感じるときがある。ガラスの壁があって、壁越しに眺めている感じ。笑ったり、相づちを打ったりするけれど、そぐわない感じがするときがある。そういうときは、恥ずかしい。いたたまれない。


普通じゃない人をいじめると、疎外感を感じさせる人たちがお互いの結束力を確認する作用がある。「普通じゃない」わたしをを使って「普通な自分たち」を確認している。
わざとじゃなくても、そういうときがある。わたしは自分がそう言うことを無意識にしているとき、たぶん、あると思う。普通の自分を確かめて安心したい気持ち。


そういう場合も過去にはあった。から、結束力の方に混ざりたかった、って気もする。


気もするけど、わたしには結束力が息苦しいし、そういうのがなくても生きていけるってことだから、強いって見方もできるんじゃないかな、とも思う。強い弱いも意味ないなあとも思う。



強いとか弱いとか見方を変えると逆転してしまう。誰かと一緒にいる人たちが強い場合もあるし、ひとりで過ごせることが強いってこともある。


多分社会に混ざりたい、って思ったけど、たぶん、実際には違う立場を経験してみたい、ってのが、近いんだろう。どんな感じなのか、知りたい。


わたしは、わたしで、わたし以外になれない。
そのことが面白い。楽しい。嬉しい。
そして、さみしい。

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