c71の一日

生活の記録

療育について

この前、わたしは、療育について、書きました。
発達障害は楽しいこともある… - c71の一日
このエントリです。
追記のところは、まだ怒っているので、あまり読みよくないです。できれば読み飛ばしてください。

しつこいと思われるかもしれませんが、もやもやしているので書きます。



このとき、わたしが言いたかったのは、療育は大事だけど、カリカリしたり負担になったりして、我慢してまでするものじゃない。療育は一生続けることができる。わたしは、療育をしてもらわなかったけれど、元気だし、楽しく暮らしている。二次障害は苦しいし、だから、昼間起きられないし、睡眠障害気分障害鬱状態もあるし、大変だけど、良いこともたくさんあるなあと思っている。苦しいことは避けられたら避けられたら良かったけれど、でも、苦しいことがあったおかげで、喜びがしみじみと感じられるし、いろいろな世間的な価値観から離れられて、好きではない競争をしなくて済むようになった。例えば、結婚すれば勝ち組だとか、高収入だったら勝ち組だとか、子どもを産んだら勝ち組だとか、そういう自分の価値観と合わないことをしなくてすむようになった。競争をしないから、自慢もしなくてすむし、自慢をしないから、人に恨まれなくて済む。人と価値観が違うせいで、幸せだ、と言ったことが自慢ととられて、恨まれることはあるけれど。


そう思って書きました。そういう意味ではあの記事は親切で書いたものだったのです。


定型の人には読み取りにくかったのかもしれないなあと反省しました。
発達の人には意味がそのまま伝わったのです。字句通りの意味で誤解するところがわからない、と話し合いました。でも、定型の人には伝わらない、って現実があります。
だから、そういうものかもしれません。


定型の人のわかるように翻訳すると、「子どもさんは幸せです。小さい頃から療育を受けられるので心配いりません。多少、親としてしてやれない、歯がゆい気持ちがあるかもしれませんが、まったく、療育を受けなかったわたしでも幸せになれたのだから、最初からわかって受け入れてくれる親御さんがいる、子どもさんが幸せにならないわけがないです。今は、他の子との発達の進度の差が気になるでしょうが、大人になればなるほど減ります。二次障害がなく大人になれることがうらやましいです」ってことです。
わたしにはこういう書き方ができないのです。これを書いたとき、つまり、今ですが、心から血のにじむような気持ちがしました。自分の自然な言葉と離れているからです。こう書けば伝わるってことにも驚くし、わたしの自然な言葉は定型の人から解離しているのだという事実もわたしの心を引き裂きます。
できれば、わたしにこんな書き方をさせないでほしいと思います。これはお願いです。
わたしは言葉通りの意味を込めて書きました。だから、嫌みとか皮肉とかはありませんでした。多くの場合皮肉のときは皮肉としてわかるように書きます。


わたしは人と目を合わせられないけど、別に困っていないです。合わせてもらえなくてさみしい、と思う人はいるかもしれないけれど、その人はその人の価値観を疑った方が良いんじゃないか、と思っています。それは、どうにもならない相手への要求だからです。目を合わせないことは、相手へなにも要求していません。だから、目を合わせないことの方が他者への影響は少ないのです。


わたしは自分が合わせなくても良いと思っています。合わせられる日も来るかもしれない。けれど、それはたいしたことじゃないです。目を合わせないことがその人の自然だったら、それを尊重してあげる方が大事だと思います。それを尊重してもらえる世界で育つことが大事だと思います。



わたしが、幸せか、どうか、が大事なんであって、わたしと目を合わせたい人は、さみしくても、それを我慢することが試練なんだと思います。わたしが、自分の障害が試練だ、ってことと同じように。それは対等な試練です。
障害のある人と向き合う人の試練だから、相手に、目を合わせるように要求するよりも、目を合わせない世界があるのだ、ってわかった方がその人のためになるんだと思います。



わたしには、子どもの頃から、療育を受けた、という人に嫉妬心があります。かっと燃え上がる心があります。わたしがしなくて良かった回り道をしないで済む人たちのことがうらやましいです。うらやましいなんてものじゃないです。



だけど、療育を受けることは人生を楽にすることが目的なのに、一生懸命、半年遅いとか、一年遅れているとか、発育を気にして、療育を必死にやることは、かえって、わたしがしたのと同じ苦しみを幼い自閉症スペクトラムの子どもが味わうんじゃないか、と思って心配です。


わたしが心配する義理はないのだろうし、大きなお世話だと思うのですが、ゆるゆるやったって、二十年、三十年後に、その差はわずかになるだろうに、と思っていました。実際、今存在するわたしからすると、一年、二年、四年だろうとなんだろうと、その差が大きいって騒ぐってことは、わたしの存在を否定されたような感じ(妄想かもしれないけど)、わたしが楽しく生きているって現実を信じられていない感じ、大人になってから療育を自分で調べてやっている大人の可能性を無視しているって、感じました。それが腹が立った原因のひとつじゃないかなあ、と思います。
療育は、大事だ、大人になってからもできる、って書いたことを矛盾だ、と言った人がいます。
それは、矛盾ではありません。
大人になってからも療育はできます。そうでなければ、わたしたちはどうしたら良いのですか?


わたしは、絶望の底にこれ以上いたくないのです。発達障害の人たちだけで暮らすことができない世界なので、定型というマジョリティに合わせなくてはなりません。そこには摩擦があります。外界との摩擦を選ばない、選べない、ということは、自分の内面を加工して、内面を摩擦して、引っ掻いて、引き裂いて、外界と円滑に接する必要があります。マジョリティの人が合わせてくれる可能性は乏しいのです。期待できません。


わたしがさっきの文章を書いてつらい気持ちになる、わかるように書くことで、自分との違いを感じて、つらくなる、みたいなことです。



わたしが、あの文章を書いて、それを読んで、「発達障害に理解のある人を、敵に回すなんて…」と言った人がいました。あの文章を読んで、誤読して(良く読めば、わたしが上記のことと同じ内容を違った表現で書いたことがわかるはずです。わかったひともいたからです)、敵になる人は、のぼせやすい人です。最初から味方ではない人です。味方だとしても、恐ろしすぎて、理解してほしいとは思えません。こういう言い方も、発達障害っぽいのかもしれませんね。理解されなくても、わたしたちは、わたしたちです。もう、存在しています。存在しているものに対して、味方がいようといまいと、関係がないのです。味方がいたら、生きるのが楽になるかというと、そんなに簡単な話じゃないし、敵に回すなんて、と言った人が味方だったとすると、ちっとも楽になる気がしません。わたしたちの自由度を狭める人だなあ、と感じました。

あと、わたしが共感性もある、と書いたところ「主さんは、共感性があると書いてあるが、肝心な親御さんに対する共感性は欠如していたんですね」と書いた人もいました。この人は定型かもしれませんが、優しくはないなあと思いました。わたしは伝わらなかったけれど、親切な気持ちであのエントリを書きました。でも、この人はわたしに近づいてみる努力をしないで、皮肉を書きました。だから、優しくないと判断しました。あと、肝心な親御さん、ってこともわかりません。わたしにとっては、その人は大切な人じゃないからです。わたしにとって、大切な人は、数人しかいません。だから、肝心、って言葉が良く理解できませんでした。



何かで敵に回る人は最初から敵です。
発達障害を知らない人でも、わたしに良くしてくれる人はたくさんいます。だから、発達障害関係者が味方になるとは限らないし、そうじゃない人がいつも敵だとは思っていません。
人間だから、相性もあると思っています。



発達障害の当事者とその親御さんは立場が違います。だから、味方とか敵とか理解者とか、簡単にはそういう関係になれません。なるとしたら、どちらかが歩み寄ったときですが、わたしの場合、発達障害の親御さんに、成人発達障害の当事者が、書いているブログを読んで、何かヒントになることがあれば良いなと思って書いています。それ以上の歩み寄りはできません。親御さんの方からも歩み寄っていただけたときに、対話が成り立つと思います。発達障害の親御さんは、ご自身が、成人発達障害じゃない場合は、マジョリティとしての生きやすさを甘受して来た人です。だから、もてなされることになれていると思います。一方、わたしはもてなすことができない障害です。関係性において、もてなすことができないのです。それこそ、療育を受けていないから、障害特性から、できないのです。できないと言ったらできないのです。



わたしは、できないことを要求されてつらかったのだと思います。
できないことと言うのは、定型の人が理解しやすい言葉で書くことです。
定型の人でも理解できる人はいるのだから、わたしはそれなりに歩み寄っていたと自分では、評価しています。


私の視点からいうと、療育をしている人が、その口で、同じ口で、わたしなりに精一杯書いた言葉を誤読したあげく、謝ったのにそれを一切無視され、怒った理由を説明を求めても、説明してもらえず、陰で悪口を言った、ということが、理解できずつらかったです。


療育を受けていないからこそ、わたしにはできないことがあります。定型の人に伝わりやすい表現を自然に選ぶ能力です。しかし、あのとき、わたしは、わたしができないことそのものを、散々なじられたと感じました。療育を受けていないから、わたしは定型の人に通じる話法を知らないのです。それをなじられてもどうしようもありません。
わたしは幸せだし、楽しく生きています。それと同時に、大人になってからも療育が必要だと思っていることは、矛盾していません。それは今書いたことが起きやすいからです。


謝ったのに、謝った言い方について、ひどい、という人もいました。わたしは、少ない情報で、いやだと言われたことについて謝ったつもりです。あくまで、わたしの視点です。あれから、ずっと考えて、わたしの気持ちはこうだな、と思いました。もちろん、わたしの見方が正しいとは思っていません。でも、わたしはそう思いました。


何が起きたのか、最初よくわかりませんでした。わからないなりに頭に血が上りました。だから、怒ったし、あまり良い感じではなかったです。でも、そうするしかなかったです。もちろん、相手の人には、違う視点があることと思います。でも、わたしには私の視点でしか物事が理解できません。



そういうわけでした。

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