c71の一日

生活の記録

女性の労働と内心の忖度、愛と仕事の関係について

セックスワークについて相変わらず考えています。
考えすぎて、頭が痛い、きつい、しんどい、死にそう、な体調で、栄養ドリンクを飲んだり、漢方薬を飲んだり、お風呂にゆっくりつかったりしています。とにかく、しんどい作業です。眠りも浅くなりました。


それだけでなく、わたしが手探りで書いたことのひとつひとつが、セックスワーカーを傷つける可能性だってもちろんあります。その上、わたしの勘違いや、試行錯誤、を正解だと思ってしまう人だっているかもしれません。怖いです。



それなのに、なぜ、書いているかと言うと、セックスワークの、言語化のしづらさ、ということに気がついたからです。


フェミニズムの文脈で言うと、言語化しづらい問題には本質が隠れているって考え方があります。

この世界は男の言語でできています。だから、男の文脈にのった世界は言葉にしやすいです。だけど、女の世界のことは、言葉にしづらいです。女のための言葉がないからです。


女の言葉は、とかくバカにされます。論理的ではない、感情的だ、破綻しているなどと。




論理的であれ、明確であれ、というのは男の理屈です。もちろん、わたしは頭脳明晰で、理屈っぽく明確な文章を書くのが好きですが、そこからあふれていく世界こそが大事だと思っています。それは、男の言葉の文脈に乗らない言葉です。男からは反逆に見えるでしょう。理屈が通らない、理不尽に見えるかもしれません。

男の言葉を越えたところに、女の世界があります。



セックスワークについて、言葉が出しにくければ出しにくいほど、それを実感すればするほど、わたしにとって、大事な問題が、隠れているのだと確信できます。



セックスワークは、わたしがしている仕事となんにも変わらない、という結論が出ました。

それにも関わらず、わたしは相変わらず、語ること、考えることに苦労しています。言葉がうまく出ません。
セックスワーカーに対して、「これは間違っていますか?」「これは正しいですか?」「これはあなたを傷つける言葉ですか?」と常に伺いたい気持ちがあります。わたしは不安なのです。
なぜならば、わたしは無神経だからです。




女が働くこと、女が愛すること、女がセックスすること、女がセックスと交換にして何かを得ること、それは安全だったり金銭的なものだったり、感情的なものだったりしますが、これらの間には、言葉にならない感情があります。



言葉にならない感情、それはこの世界ではないことになっています。存在しないってことになっています。言葉で表現できないもの、見えないもの、聞こえないもの、触れないものは、ないってことになっています。でも、わたしは知っています。存在するってことを知っています。



その、存在しないと言うことになっている感情や感覚には、大事なことが含まれています。人間が生きる上で、大事なことが含まれています。


わたしがセックスワークについて、考えたり、語ろうとする困難さ、わたしの中で苦しみや痛みが生じる現象と、存在しないことになっている何かとは、密接な関係がある、そんな予感がします。



セックスワークが、わたしの仕事と全く同じだったら、わたしは気楽に言葉を紡ぎます。
それは例えば、以下の文章のようになるでしょう。
お客さんである生徒さんは可愛いです。困難があっても、成果が出れば頑張れます。生徒さんに愛情が持てなくても、やることさえやれば、お金がもらえ、そのことで仕事の苦痛と折り合うことができます。
できる限りのことをして、お金をもらうことは幸せです。わたしは仕事に愛情を持っています。
それは、わたしの個人的な環境で味わうことができる、労働観です。だから、それを他の人に適用できるわけではないともわかっています。
以前の職場では仕事に愛情を持つことができませんでした。それでも、お金がもらえるから働いていました。それで、完結していました。そして、その日々を送ることがいやだったからやめました。
わたしは、そんな風に語ることができます。わたしは簡単に生きています。わたしは仕事に愛を持っているときと持っていないときがありました。




セックスワークを語るときの困難さは、どこから来ているのでしょう。わたしは自分が非当事者だと思っていません。わたしはセックスワーカーではありませんが、セックスワークが存在する世界で生きているので、影響を受けています。



どうしてなんだろう?どうして、こんなにも語ることが難しいのだろう。

どうして、わたしは自分の仕事について語るように、他の人の仕事に対して疑問を持つように、自然に、セックスワークについて、疑問を持ったり、質問したり、語ったりすることが難しいと感じるのだろうか?



どんな仕事でも、契約に定められたことをすれば、お金がもらえます。そのときの内心はどうだって良いわけです。本人としては、充実感や仕事への愛情があれば、お金ももらえた上に、楽しいのだから、万々歳です。でも、そうでないときもあります。そうじゃないときの方が多いかもしれません。


わたしが仕事を頼まれるとき、相手は、わたしがどんな心構えで働いているか、どうでも良いでしょう。
わたしが仕事を頼むとき、相手がどんな心構えで働いているか、どうでも良いでしょう。



わたしのセックス、労働観、そしてセックスワークについてのエントリのまとめ - c71の一日



だから、このエントリで、

実際は、そうじゃない。わたしが生徒さんを愛しているように、セックスワーカーも、お客さんのことを大事に思い、尊重し、できるだけ良い関係を築きたい、って思っているんだな、って最近感じる。

こう書いていたけれど、わたしはセックスワーカーの内心を推し量るべきじゃありませんでした。

全く同じじゃないか。わたしが生徒さんを愛することと、セックスワーカーがお客さんを、広い意味で愛することと。恋はしなくても、人間として尊重する気持ちを持っているってことと同じ。


こう書いた意図は、愛、ってところが大事なんじゃなくて、お客さんを尊重する気持ちがあるのではないか、ってところを重点的に言いたかったのだけれど、これも、今は間違った考え方だと思います。
お客さんを尊重していようがしていまいが、どうでも良いからです。それは大事なことじゃないです。

もちろん、お客さんに良い気分で帰ってほしい、できることをしたい、と思って働いている人もいるでしょう。でも、そうじゃない人もいるでしょう。そうじゃないとしても、決められたサービスをこなせば、お金が発生します。だとしたら、内心、よりも、具体的に起こした行動、サービス内容、が大事になるはずです。




女性が働くとき、求められるのは業務だけじゃありません。気遣いや女らしさ、古い言葉で言えば、職場の華としての立場、理不尽でも言い返さないこと、感情を抑えること、セクハラに耐えること、契約にない雑務をこなすこと、生理が来ても、生理なんかないかのように振る舞うことが、要求されます。場合によっては、花嫁候補と呼ばれたり、恋愛の対象になったりもします。
ただ、仕事場に行くだけなのに。


女性が働くときには、内心が忖度されます。
心からもてなしているか、心からありがとうを言っているか、心から感謝しているか、心から反省しているか、心から働きたいと思っているのか。


心から働きたいと思わなければ働く資格がない、働けることを感謝しろ、と責められる女性は多いように思います。そういってくる人は、家族だったり、職場の上司だったりするでしょう。


わたしは、それをずっといやだと思っていたのに、それに逆らって生きて来たのに、いつの間にか、それを内面化し、その規範で、セックスワーカーを自分の気持ちで裁きました。
しかも、それは好意でした。好意的に思っているから、わたしにとって、納得しやすい気持ちで、働いていてほしいと願っていたから、セックスワーカーの気持ちを決めつけたのです。



わたしは、その決めつけをしたことに関して、それはしてほしくないと、教えてもらいました。この場を借りてお礼を言いたいと思います。
それで、わたしは自分のしたことを振り返って、よく考えたら、自分が無神経なマジョリティとして行動したのだとわかりました。


「これが世間の見方であり、感覚なのか」と思いました。わたしは自分がマイノリティでいる場面が今まで多かったので、マジョリティの立場や考え方を良く知らなかったのです。
マジョリティとしてのわたしは、マイノリティの存在に気がついて、あれこれ考えて、ものを言いました。そして、その発言の内容について、それは言ってほしくないと言われました。拒絶されたときに、何が悪いのかもわかりませんでした。悪いことをしたの?どこが?みたいな気持ちでした。善意で相手の気持ちを読もうとしたのに、拒絶されたことにショックを受けました。
真摯に考えているのに、褒めてほしいのに、という気持ちもあったかもしれません。


わたしには何も悪意がありませんでした。それで、相手の方がおかしいのではないかとか、思ってしまう可能性のことを思いました。わたしは運がよかったと思います。自分が悪いと思えて良かったです。
悪意はなかったけれど、人を傷つけました。そして、半日考えないと、傷つけたことにすら気がつきませんでした。そして、まずかったことをした、と気づいてから、さらに半日かけて考えて、ぼんやりと、内心の忖度をしたことがまずかったのかなあ、と思いました。わたしはそれくらい鈍い。マジョリティとしての、わたしはとても鈍い、ということがわかりました。かなりはっきりとどうして、わたしの書いたことがまずかったのか、教えてもらったのにも関わらず、言葉の意味が頭に入らなかったのです。相手が、怒っている、いやな気持ちでいる、ということはぼんやりと伝わるのですが、そんなはずはない、と否定したい気持ちが勝ちそうになるのです。そして、なかったことにしようと、思いたがるのです。それが、マジョリティとしてのわたしの反射的な行動でした。




女性の労働問題が、改善しないわけです。
マジョリティの側は、言葉を受け取ることになれていないです。マイノリティの使う言葉を理解する受容体がないのです。
そして、マイノリティは言葉を剥奪されています。言葉は、マジョリティのものなのです。
論理的であれ、というルールはマジョリティが作りました。
マイノリティの苦しみは、論理的ではありません。
だから、そんなものは通用しないと退けられてしまいます。



言葉にならない言葉で、訴えることをつづけるのはしんどいことです。


だから、わたしがセックスワークのことを考えるとき、わたしはしんどくなって、眠りが浅くなって、頭痛がするのだと思います。



仕事には愛が存在します。
仕事には愛が存在しません。
労働は形だけやれば良いです。
労働は形だけやってもダメで、心がこもっていないとダメです。



どちらも同時に起こりえます。
矛盾です。
矛盾だけれど、世間はそれを言います。
女を代表とした、マイノリティだけに対して。




問題は、なぜ、マイノリティばかりが、仕事の内容だけで評価されず、心構えを含めて評価されるのか。
内心を忖度されるのが、なぜ、マイノリティばかりなのか。


わたしがセックスワークや、女性労働や差別について考えるとき、こうしたことを考えなくてはいけません。世間から見ると、マイノリティの言葉こそが、矛盾に満ちていると判断されます。本当は矛盾しているのは、世間の方なのに。


だからこそ、わたしはすっきりとしない言葉を、発していかなくてはいけないのです。すっきりしない、解決しない言葉こそが真実を反映しています。
すっきりとした、矛盾のない、論理的な言葉は、本質を取りこぼしています。
言葉にできない感情を。


問題を抱えたまま、問題を安易に解決しようとせず、見つめるのは強さです。

だから、わたしは、語りたいのです。
誰にも通じない言葉を通じるように、語るべきときに、そして、誰も望んでいない、語るべきではないときに、語りたいと思います。