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c71の一日

生活の記録

セックスワーク、葛藤、おかあさん的感情労働

朝に
女性の労働と内心の忖度、愛と仕事の関係について - c71の一日
この記事を書いた。
それから、わたしはずっと葛藤してる。不安でいっぱいだ。


これから、たくさんある不安をひとつずつ列挙していきたい。

今日は、考えすぎて、体がだるくて、頭がうまく働かなくなった。少し考えるのを休めば良いと思うのだけど、それもなかなか難しい。頭の中を勝手に、思考が走ってしまう。


そして、自己嫌悪になった。
考えても考えても、問題の核心に近づけない気がした。
セックスワークについて、わたしが考えることで、セックスワーカーやお客さん、お店で働いている人などの当事者を傷つけてしまっているのではないか、見当違いのことを言って、迷惑をかけているのか、心配になった。そして、それを確かめようとすればするほど、他人の負担が増えてしまう。友だちにしつこくしてしまった。


わたしが考えることに意味はあるのか?


わたしにとって、セックスワークについて考えることは、意味がある、と思っていたのだけれど、確信がどんどん薄くなる。わたしには無理なんじゃないのか、わたしは届かないんじゃないか、と思って、無力感に途方に暮れる。だって、この問題は大きすぎる。広すぎる。知っていることはあまりにも少ない。



わたしは正解を知りたくなってしまった。
当事者に、ねえ、わたしに正解を教えてよ、と聞きたくなってしまった。
手っ取り早く。

わたしが、自分自身で考えることに意味があるのに、それを放棄してしまいたくなった。
自分で考えることに、意味がある、と思うのは、わたしにはセックスワーカーに対して、責任があると思うからだ。
セックスワーカーにならなかったわたしは、セックスワーカーになったかもしれないわたしでもある。



わたしはセックスを利用して、相手をコントロールしようとしたことがある。
わたしはセックスを利用して、男にコントロールされたことがある。
セックスは人をコントロールするためのものじゃないのに、そういう使い方もできる。
セックスは、純粋に性欲だけの問題じゃない。
いろんなことが混じっている。
わたしはそのことを考えたい。
だから、セックスワークについて、わたしは関心がある。
わたしはセックスにお金を介在させたことはない。だけど、セックスを通じて、性欲以外のものを得たことがある。
そして、暴力に言葉を奪われたことがある。
今、わたしは語ることができる。あのとき、奪われた言葉を語りたい。


わたしは、セックスワーカーに負い目を感じている。わたしには、間違ったことを言って、迷惑をかけているのではないか、という恐れがある。
わたしはセックスワークをしている人たちのことを傷つけているのではないかと心配だ。だから、わたしが考えた文章を書いたことによって生じる、加害についての負い目がある。



生徒さんが立て続けに合格して、契約も取れて、緊張の糸が解けたのかどうか、わからないけれど、わたしはダウンしてしまった。考えたいことはたくさんあるのに、頭が働かない。
考えたいことって、本当に考える価値があるのだろうか。わたし以外の人がとっくに考えていて、正解があって、わたしは間違った答えを出し続けているだけじゃないのか。



セックスワークをしている人の気持ちを当てるゲームになってしまっていないか。だから、わたしは正解があると錯覚しているのではないか。
正解はないのに。わたしなりの到達できる考え方しかないのに。



頭が働かなくて、さみしさと無力感がある。頭が働かないとさみしくなる。わたしには、何もできないんだって。何もかも的外れなのじゃないかって。


セックスワークについて、考えることが、セックスワーカーに迷惑をかけているんじゃないかと、不安になる。出発点は、わたしが、知りたいと願って、考え始めたことなのに、周りを見て、正解を探している。それでは本末転倒だ。なのに、どこかに、正解があるはずなんじゃないかって、思ってしまっている。それが自分を追いつめてる。



わたしの試みは正しいのですか。わたしには確信がない。
わたしが自分の欲望に沿って、知りたい、考えたいという欲求に沿って始めたことなのに、わたしはだれかに正しいと言ってほしがっている。無力感でいっぱいだ。考えない方が迷惑にならないんじゃないかと心配になる。


わたしは、わたしのこととして、セックスワークについて考え始めた。そのことは今も変わりないのだけれど。



セックスワーカーの人の気持ちを当てるゲームになってしまっているから、自分を追いつめているのじゃないか、という疑念が振り払えない。


セックスワークについて考えることは、自分のこととして考えること、という立場に立って始めたのだけれど、どうしても届かないことがたくさんある。
わたしが考えている途中のことが、間違いを含んでいる多くのことが、広まってしまうことが恐ろしい。



今日気がついたのは、セックスワークについて、言語化することの難しさだった。
語ることの困難さ、それ自体が、セックスワークの本質に近い、と思った。


だから、わたしは、今、困っている。弱っている。



でも、わたしが弱るほど考えてもわからない、そのことが示している何かが大事なんじゃないのだろうか。
セックスワークについて語ろうとすると言葉を失ってしまう、そして、無力感に苛まれる、弱ってしまう、そのこと自体が、問題の本質をついているのじゃないだろうか。

わたしに、考えたことに確信がない。無力感にとらわれている。けれど、その状況そのものが大事なのじゃないだろうか。語りたいのに言葉がないと言うことが、問題の重大さを示しているのではないだろうか。
わたしがこのことを考えると、きつい、キツいと言うこと自体が、この問題のたいへんさを表しているんじゃないか。


簡単に答えが出ない、ってことは問題が大きいってことだ。


わたしははじめて問題の大きさの一端に触れた可能性がある。


わたしは今、最高にみっともなくて、最高にめんどくさい人間だ。友だちにも迷惑をかけている。彼氏にも迷惑をかけている。ツイッターの人にも甘えて、愚痴をこぼして、迷惑をかけている。慰めてほしい、正しいことをしていると言ってほしい、頑張ってるねと言ってほしい。褒めてほしい。間違っていないと言ってほしい。




そして、わたしは考えている。


わたしから遠い、仕事のことを考えている。遠いと思っていたのに、近い仕事のことを考えている。



欲望。



欲望から価値を生む仕事がある一方で。
欲望を恵んでもらうわたし。

欲望は金銭で交換可能なのだと、誰もに突きつける仕事。
性欲以外の欲望ならば、金銭で交換可能なのだと、容易く理解できるのに、性欲に限ってはすんなりと理解がいかないわたしがいる。


どんなものでもお金で買えるのに、愛する人とのセックスだけがお金で買えない。



そのことがわたしの心を引き裂く。おそらく、いろいろな人の心を引き裂く。


わたしにとって、愛する男の欲望には価値があるのに、その男が、金銭で欲望を交換してしまったら、その欲望の価値はどこに行ってしまうのだろう。消えてしまうのか。わたしにとって、価値のある欲望が、お金を介在して取引され、男の欲望はお金を払って引き取られる。




そのこともわたしを不安定にする。



だから、人は、セックスワーカーを恐れるのではないだろうか。
お金で扱えないはずのものをお金に換算することが、恐ろしいから。
錬金術のように感じるから。


わたしは欲望を、愛情と、快楽を求める気持ちと、子どもが欲しい気持ちと、相手を愛する気持ちが、混ざったものだと感じている。


だから、それを売り買いする人は、上記の感情すべてを引き受ける気がしていた。
気持ちの上で、射精をする助けをしているのみだ、サービスをしているのみだ、接客をしているのみだ、ということを納得するのが難しかった。


セックスに付随する愛情はどこへ消えてしまうのか、知りたかった。



でも、性欲に、愛情が付随しない場合もあると思い出した。
正確に言うと、性欲を処理する側にも、処理される側にも、愛情が付随しない場合があることがあるのだ。



本当は、そんなこと、とっくに知っていた。男の性欲を感じて、受け止めて、それをなだめるとき、わたしには必ずしも愛情があったわけじゃない。機械のようになれたら良いのにと願って、心なんてなければ楽になれるのにと思いながら、ロボットになりたいと願って、わたしはただの「物体」なんだと言い聞かせて、心を殺していたときが確かにあった。


わたしにはそういう経験があった。


セックスをしたことがある人は、セックスワークを自分のセックスに関係したものだと考えるのではないだろうか。
だから、セックスワーカーを敬して、遠ざけるのではないだろうか。


わたしは、自分が物体のようになったときのことを思い出すのが怖かった。セックスワーカーが、物体のようになって、働いていることを想像するのが怖かった。
だから、セックスワークについて考えるとき、平静ではいられなかった。


それは、わたしの問題だった。わたしのセックスで起きた、怖い出来事だった。



他人であるセックスワーカーにはそんなことは関係がない。
なのに、セックス、という話題になると、それが個人的な体験を通してしか、想像ができないから、うまく判断ができなくなってしまう。


普通の仕事だということはわかった。

でも、想像しにくい仕事だ。わたしのセックスは愛にあふれたセックスのときもあったし、そうでないセックスもあった。


だから、わたしはセックスワーカーに、こうあってほしいと言う願いを込めて分析した。そして、それは結果的に、わたしの願望の押し付けになった。



わたしは自分の仕事が楽しい。だから、セックスワーカーも、仕事が楽しい、お客さんに喜んでほしいと願っている場合が、あるはずだと思いたかった。
実際、博愛、という意味に近い愛がある場合があるのだと思う。だけど、わたしが間違っていたのは、それをセックスワーカーに押し付けたことだ。この行為は、迷惑になる可能性がとてもある。内心がどんな気持ちであっても、仕事は仕事だからこなす、という立場を尊重していなかった。わたしは内心に踏み込んではいけなかった。それは無礼だから。



今日、わたしは不安定で、めんどくさい人間だった。わたしは、セックスワーカーの人に、どう考えれば良いのか、正解を教えてほしくなった。正解をほしがる人間はめんどくさい。


今日は体調が悪かった。頭が痛かった。生姜湯を飲んで、痛み止めを飲んで、ソラナックスを飲んだ。落ち着かなかった。不安だった。自分が何をしているのか、何のために考えているのか、わからなくなった。塾を辞めた生徒さんが近況を教えに会いに来てくれたり、彼氏がスープを作ってくれたりしたのに、わたしは緩まなかった。心細かった。



セックスワークはわたしに近い。わたしはセックスをするからだ。

セックスワークはわたしに遠い。わたしの職業とは違うからだ。だから、その職業の苦労や喜びを、わたしは想像するしかない。



セックスワークが大事な仕事だとか、世の中に必要不可欠だ、という意見に対して、わたしは関心が全くない。それは男の立場の言説だからだ。



わたしが興味を持つのは、言葉にできない、言葉にならない、理屈や論理からこぼれ落ちた何か。
わたしはそれを救い上げることができるだろうか。ひとつだけでも。少しだけでも。


わたしはセックスワークを恐れている。わたしは言葉にできない何かを、少しでも、考えることができるだろうか。わたしは恐れている。そのことで葛藤している。






セックスワーカーは性欲を処理するだけが仕事のはずだ。だけど、それ以上のことを求められている。特別扱いを求められたり、情緒的な交流を求められたり、承認欲求を求められたりする。


セックスワーカーは「おかあさん」から最も遠い存在なのに、情緒的に求められるのは「おかあさん」の役割だ。
感情を抑え、感情労働をする。しかし、その部分について、賃金が払われることはない。それは、おかあさんの役割だ。だけど、感情労働を、セックスワーカーが無償でしているなんてことを認識すらしていない人が多いらしい。


だから、わたしは、風俗を利用する男性を恐れる。みんながみんな、そうだとは言えないし、実際のところはわからないけれど、セックス、というもっとも母性から離れた行為を要求しながら、「おかあさん」的なものを求めるグロテスクさが恐ろしい。そして、それはセックスワーカーにだけ求めるのではなくて、セックスワークをしていない女性に対しても無自覚に求めることが恐ろしい。


風俗を男同士のコミュニケーションのために利用する男性のことも恐ろしい。



わたしは、正確に言うと、セックスワーカーが恐ろしいのではなくて、性欲をお金に変換するシステムや、女の体を媒介にして男同士のコミュニケーションをとる男性や、サービスにない、感情労働を要求する男性が恐ろしいのかもしれない。