c71の一日

生活の記録

頭の中から消えない

頭の中で、一ヶ月前の親に言われた言葉が、何度もリフレインする。
それは思い出そうとして思い出しているんじゃない。勝手にスライドショーみたいに声の調子とと、そのときの何も言えなかった気持ちとともに思い出されて、現実が、今じゃなくてそのときに引き戻ったみたいに感じる。


昨日気がついたのだけどこれはフラッシュバックだ。


わたしは親がそのつもりではなかったと知っているけれど、不意打ちされたと感じている。
頼んでもいない忠告をされたと思っている。
感じたのは仕方がない。知っていることと、わたしが感じることは別のことだ。
わたしはあの不意打ちによって、彼らに持っていた信頼感や安心感を失った。
それは、わたしにはどうしようもないことだ。
人間だし生き物だから、反射的にそうなってしまった。


恋人を親と引き合わせたときだった。親は自分の意見を言うとともに、恋人に同意を求めた。あなたもそう思うでしょと。
わたしには誰も味方がいない気分だった。
恋人もわたしの味方じゃないのかと思った。
誰も信じられない。裏切られた。
信じていたから何でも話していたのに。
それを利用されて、わたしを辱めた。
わたしは恋人を親に会わせるという目的のために会った。
だけど、結果的に本題はそれではなく、今の私がしていることは間違っている、と言うことを述べられた場だった。端的に言えば、そのときのわたしは間違っている、と言う話だった。



多重人格になったことは、わたしが望んだことじゃなかった。
わたしは多重人格になったことや、新しい人格にコントロールされることについて、苦しんでいた。
多重人格のもうひとりの人格は、いやな人間ではないし個人的には好きだったが、ひとりの体に二人の人格があることはとても大変なことだった。
しかし、彼らは、わたしが好んで多重人格になったという前提でものを話しているようだった。これについては確信はないが、労りの言葉はなかった。


わたしはあのとき、多重人格、つまり、人格が剥離されるほど追いつめられていて、調子が悪く、その中で精一杯あがくためにいろいろしていたのだけれど、それをすべて否定されて、やり方が悪い、そういうことをすると顔に出てる、人相が悪くなる、トラブルが増えて、人に信用されなくなる、今やっていることに影響して、何もかもが悪くなる、周りにイエスマンしか置かないことは間違っている、自分の聞きたくない意見こそ聞けと言われた。占いでお金をとることは間違っている、人に恨まれる、お金のことばかり気にしていはいけないと言われた。
もっともな意見でもあったけれど、わたしにはわたしなりの考えがあった。
ボランティアで占いをするべきだ、と言われたけれど、まったく賛成できなかった。
わたしにはわたしの考え方があった。
うまく説明できないけれど必然があった。
お金を払いたくない人はわたしに頼まないだろう、お金を払っても聞きたい人を占おうと思っていた。
だます気もなかった。



それからと言うもの、ずっとわたしは消えたいと思っている。死にたいと思っている。それまでは、ここ数年死にたいと思ったことはなかったけれど、頑張って生きのびようとしていたことを無視された気分になった。そりゃあ、間違っていることはしているかもしれないけれど、わたしには必然性があって、工夫していることなのに、それをなくしたら、わたしはどうやって生きていけば良いんだろう。



親が悪気はなく、愛情故に、わたしに忠告したことは理解している。彼らはそうはっきり言った。それは嘘ではないのだろう。嘘だとも思っていない。
けれど、わたしはだまされた、不意打ちにされたと思った。逃げ場がなかった。わたしはあの場から逃げ出したかった。逃げられない状況で言われた。私は泣いた。泣いた私を彼らは微笑みながら見ていた。未熟な人間を見るように。子ども扱いするように。愛情故に。人前で涙を流すわたしを、発達障害だから仕方がないと許すように。

恋人を、親に紹介する日に言われたから、わたしは動揺した。そういう予定ではなかったから心の準備が全くできていなかったし、気持ちの切り替えもできなかった。恋人の前で言われたのも恥ずかしかったし、二ヶ月前からブログを毎日読んでいる、そして、書いてあることにびっくりしたと言われたこともショックだった。
わたしは、父が私のことを知りたいのじゃないかと思って、知りたいと言うから、ブログを教えたのだった。
なのに、それ以外の目的で、読んでいたと知り、そして、わたしが気持ちを発散する場としてブログを書いていたのに、わたしを矯正するきっかけとして、ブログをつかわれたのもショックだった。



わたしは人格が剥離していることも、心配されなかった。
もともと、二重人格みたいなものだし、と言われた。
多重人格ってどういうものか、どんな風に負担があるのかは聞かれなかった。
占いをするから具合が悪いのだと決めつけられた。
そういうわけじゃなかった。
因果としては多重人格になる前から具合が悪く、多重人格になってますます具合が悪かった。
そして、他の人格が、占いをすることを欲したのだった。わたしはその通りにすることで、少しの安らぎを得た。


わたしのもうひとつの人格は今は統合されたけれど、彼女は全く別の人格だったから、彼女がやりたかったことはわたしには止められなかった。止めようとすると苦しくなって、どうしようもなかった。
人の役に立つのは楽しかったし、嬉しかった。でも、わたしの手柄じゃないといつも思っていた。

だから、わたしが例えば占いをしていることについて、わたしに言われても困った。わたしを否定されても困った。それはわたしの別人格がやっていることだったから。だけど、そんなことすら聞かれなかった。
そういうことをわかってもらえなかったし、そもそも、多重人格になるほどのストレスがあるのにも関われず、それについて何も触れられなかった。ただ、わたしのしていることが間違っていると言われただけだった。



親の言う通りにするのがいやだ、と言ったら、それがそもそもだめだ、何を言われても冷静に対処しなければならないと言われた。わたしはこれから一切親に本心を言わず、たとえば、「持ち帰って考えさせていただきます」という風にしようと思う。


わたしが本音を少しでも言ったら、それがダメだと言われたのだから、そうするしかない。彼らに都合の良い本心らしきものを提示するしかない。そうじゃないと心が殺されてしまう。彼らの善意が、彼らの善意であることは疑いもないのだけど、それとは別にわたしの心は死んでしまう。

善意によって、心が死んでしまうことはある。精神科医の先生はどう思うのだろうね?とわたしに問いかけたのだけど、暗に、精神科医の先生は今のわたしは良いと思わない、親と同意見のはずだ、と言うことをにおわせたのだと思う。


そうやって発言することは、彼らの意図とは別に、わたしの安心できる居場所を心理的に奪うことになった。わたしは信頼できるもの、居場所になるもの、根になるものを失って、それ以来、解離状態になった。現実感が薄れてしまった。


親はそれを自分の意思でどうにかできる、コントロールしようとしていないだけだと思っているらしいが、これは病気だ。自分の意思で病気になる人がいるだろうか?わたしには過剰なストレスがかかったので、もう対処できない。対処できない、と伝えたのに、まだ負荷をかけられた上に、いやだ、と言うこと自体を否定されたのだから話し合う余地は全くなくなってしまった。負荷を拒否することを否定されたら自分の気持ちを言いようもない。



こういう風に言うと自分の気持ちを言わないのが悪い、と言われるのだけど、そんな機会がなかったし、わたしは自分の気持ちを正確に把握することも伝えることも苦手なのだ。できない。たどたどしい言葉で乱暴に言えばその言い方が悪い、と言われてしまえばおしまいだ。


わたしは文章をこうして書く分には自分の気持ちを整理できる。だけど、この能力は限定的だから、話し言葉のときには発揮されない。それを理解されなかった。


理解できるように説明しないのが悪い、と言われれば、その通りで、しかし、わたしにはそれができないのだから、可能なのは、理解できるように言えないわたしが悪いのだったら、わたしはそれができないので、距離を置くしかありませんね、ということだ。


わたしには生活がある。わたしは一ヶ月前に会ったときから、仕事にミスが連発して(解離が起き続けているので当たり前だ)、仕事が続けられるか難しくなって来ている。


コンビニをやめると報告したときも、「人間観察の場になるし、大人と接する機会にもなるし、成長するからやめない方が良い」と言われた。これは以前、親に(同じ人間だ)コンビニをやめた方が良いと言われたときに、わたしが言った言葉とまるっきり同じだ。わたしが言った言葉を、どうしてわたしに再び言うのだろう?


わたしにとって、コンビニはその役目を終えて、塾の仕事の妨げになっている。そして、相談したわけじゃなくて、結果を一応親切で報告しただけだ。なのに、忠告をされたので、面食らってしまった。そして、一応言うことを聞いて、そのときにはやめなかった。だから、今の状態が起きている。
もし、あのときにすぐやめていたら、精神状態はここまで悪化しなかっただろう。けれど、それを言っても「結局選んだのはあなたなのだから」と言って、親はわたしの責任を強調するだろう。


言うことを聞かなければ、周りにイエスマンばかり置く(これは実際に言われた言葉だ)と言われ、言うことを聞いて、思った通り、精神状態が悪化し生活が難しくなれば「人にどういわれたとしても、選んだのは自分だから人のせいにしてはいけない。縛られていたわけじゃないんだから(これも違う場面で言われた言葉だ)」と言われる。どうしても、わたしは非難される。そこには結局のところ、わたしに対して、大人としての信頼がないからだ(親にとってはいつまでも子どもだから、と言われた)。そういうわけで、わたしにとっての、逃げ道はすべて塞がれている。


(ところで、一般市民にイエスマンばかり置くと言うことは可能だろうか。わたしには権力がないから、イエスマンしか置かないと言うことは不可能だと思う。結局、親の言うことを聞かない、と言うことを拡張して言われている気がする。わたしが本当に人の反対意見を聞かないかどうか、親には観測できないはずだ。否定意見が欲しかったら、わたしはちゃんと聞きにいく。だけど、イエスマンしか置かないと言われたと言うことは、わたしがそれをしないはずだと確信を持って、わたしを信じていないんだろう)

親が悪いのだ、と思いたくても「あなたのためを思っていっている」と言う言葉と「自分にとって好ましくない、耳に痛い言葉こそ耳に入れないと成長しない」と言う言葉を言われたので、それもできない。


それは、個人の自由で、親がそう思っているなら自由だけれど、わたしには押し付けないでほしいと思った。けれど、そういうことをしていてはいけない、と言われた。耳に痛い意見を言ってくれる人は貴重で、そこで気づかないと行けないと言われた。そういうキツいことを言うのも、「あなたの幸せを願っているだけです」と言われた。



親が私の幸せを願えば願うほど、わたしは精神が不安定になり、不幸になり、苦しくなる。精神の余裕がなくなるため、仕事でミスが増える。ミスが増えるのは自己管理、と言われるかもしれないけれど、そうならできることはただひとつで自己管理のために親と全く接しない、ということしか、わたしには残されていない。




三年前、強盗に遭ってから、わたしはずっと具合が悪い。
もっと言えば、高校生のときレイプされてからずっと具合が悪い。
そのせいで、その後弱ったわたしは人を見る目がなく、だまされて、その尻拭いを親にしてもらったという経緯がある。弱ると、悪人がよって来て、さらにトラブルを拡大するのだ。
弱っている人がどうしてさらなるトラブルに巻き込まれるのかと言うと、頭が悪かったり警戒心が弱いからじゃなくて、弱っていると、悪人がどこからか嗅ぎ付けてかもにするからだ。
悪人は、それで生活しているから。

そうはいっても、尻拭いをさせたのは悪かったと思っている。
だけど、親はわたしが未成年のとき、レイプされたときに、保護してくれなかった。親は、レイプされたことも知らなかった。
わたしはそのために、人に対する認知が歪んだまま、現実と自分の輪郭が曖昧なまま生きて来た上に、自閉症があるから、だまされやすい。
迷惑をかけたのは事実だけれど、わたしが未成年だったときに、必要な、支援をしてくれなかったのは彼らの問題だと思う。(レイプや虐待をされていたことを知らなかったと言うかもしれないが、知る義務があったと思う。知るすべがなかったと言うかもしれないけれど、知るすべを作るべきだったんじゃないかと思う)


そのために、成人してから今も、わたしは現実とうまくやれないが(大人になったから自分で対処するべきだと思うが)、だからこそ、今度はわたしを放っておいてくれるべきだと思う。(レイプや虐待を見過ごしていたのだから、わたしのこれくらいの要望は聞いてくれても良いと思う)

なぜなら、わたしは、親の忠告を聞くと解離が起きて、仕事ができなくなるからだ。それはわたしが聞く耳を持たないとかそういう意味じゃなくて、わたしのキャパシティが仕事をして家事をすることで一杯いっぱいなのに、それ以上のことを望まれるから無理になるということだ。


わたしをよりよくしようとするのは、誰であってもやめてほしい。わたしは死なないで生きている。仕事をしている。犯罪も犯していない。それで十分じゃないのか。
わたしは今までつらい目に会ってきたし、そういう人間が社会復帰するのは、端から思うよりもレアケースなのだ。
わたしは十分やっている。
これ以上求められると、わたしは死ぬしかない。
極端だと思われるかもしれないが、わたしはそれくらい追いつめられている。