c71の一日

生活の記録

ラインのスタンプの意味が読み取れないことから始まって

文字の方が楽だ、ということなのですが、実は、文字情報の中にも、察する文化があるなーってことで、以下覚え書きです。


友だちとラインやっていて、気づいたのですが、わたしはスタンプの意味を、書いてある言葉だけで見ているから、ちょっと意味が違って、送っていたらしいです。


やすんじゃえ、っていうのとか、ねむっちゃえ、というのとかだったんで、わたしは癒されるなーと思っていたのだけど、そういうスタンプじゃなかったらしいです。


それから話が発展して、友だちがものを教えてくれるときも、いったん、関係性が切り離されて、言葉の意味だけで受け取るから、すごく重く受け取ってるんだ、ということを説明したら、相手は驚いていました。たぶん、だけど、関係性があるからこそ、言っている、ってことなのを、わたしは理解しないんだなあ…。
それは、梱包の仕方を教えてくれたという話だから申告でも何もないのに、責められているように感じてしまったのでした。そして、そう伝えたら、相手もびっくりしました。
文字通り受け取った上に、「梱包ひとつもできないなんて」という謎のメッセージ(相手が言ってもいないこと)を勝手に受信していたから、傷ついたみたいなんですね。
あと、わたしは完璧であらねばならない、ていうのが、あるらしく、他人から、こうしたら?というのを言われると、けっこう、あたふたする、というか、責められるように感じます。
ぎゃーってなる。
怖い、ってなる。
これはたぶん、実母が、わたしに何か指摘したあと、金切り声で叫んだ経験があるから、わたしに何かを指摘する人は、そのあとわたしの対応如何では、わたしに対して危害を加える、って思っちゃってるだと思います。
そういう反射的なことがあります。


(コンビニバイトでも、口の聞き方が悪い、と言って、そのあと脅してくるお客さんがいます。「笑っていても、口の聞き方ひとつで人は豹変するんだからね」とか言ってくる、あるバーコードはげのおっさんマジきもい。身体的な特徴でののしってはいけないのだけど。向こうはわたしが女だからという身体的な理由で、そういうことを言ってくるのだろう。暴力をほのめかすのは。前にもこのコンビニで一番若いのかな?と言って忙しいのに絡んで来てなかなか帰らなかったし。あとなんか、オーナーでもないのに、そういう役職の人みたいな説教する。
低賃金で働いている人に無意味に威張る人は、全員きもい)


こういうすれ違いってわたしにはけっこう起こっているはずだけど、でも、すれちがったまま、確かめないままのことも多い気がしました。


確かめられる相手だと良いのだけどそれでも緊張します。


人と付き合うのは緊張するなあと思います。他の人もそうなのかな?
そうなんだとしたら、みんなあまり関わり合いにならないで暮らした方が楽な気がします。
でも、そうはいかないから、浮き世は難しいですね。



人の間のなにか、を読み取るのは超音波を聞く能力がある、みたいなことなのかな、ということをその友だちと話しました。



ゲルマニウムラジオで例えると、わたしはコイルの巻きが少ないから、受信しにくい。調子が良いときには、超音波を可聴音域に変換することができるときもあるけれど、そうじゃないときの方が多い。だから、超音波ががんがん鳴っていても聞こえない。
聞こえても、それを言語だったりメッセージだとは受け取れない。
だから、何も反応しない。
一応少しは鳴ることもあるから、一生懸命チューニングして耳を澄ませて、雑音ばかりのメッセージをなんとか理解して、その上で、判断して反応して行動しようと頑張っている感じ。
超音波があること自体に半信半疑だから、それにかける労力が不毛に感じてますます疲れるし、周波数も知らないから、偶然を待つ以外ない感じ。

人の間のことを察することができる人は、コイルをぐるんぐるん巻いてあるゲルマニウムラジオで、水晶もびりびり振動するし、超音波もがんがん可聴音域に変換できる。そしてその聞こえた情報を聞いた瞬間、反応するからそれを止められない感じ。そのラジオにはスイッチもないから、聞こえない状態にもできないから、疲れるけれど、うまく使えば利用もできる感じ。でも、常にメッセージが垂れ流し状態だから疲れる。メッセージが着たら、無視するにしてもなんにしても一回、判断、っていうフィルターを通さないといけない感じ。


なのかなあ、と思いました。


コミュニケーションの間にあるものが、見えない、聞こえない、感じられない、ってのが、あるかなあ。
感じたとしても、それの意味が理解できない、というか…。
例えば子どもの頃は険悪な状態とかいじめられていることはわからなかったけどいやな気持ちにはなった、ただ、その気持ちに名前を付けられなかった、ということとか、今は学習して険悪な状態には気がつくようになったけど、どうしてそういう状態になったかが理解できなくて一寸先が闇、で、他の人が違う言語で話している気がして、いつも疎外感がある、わたしの知らない話題でいつも盛り上がっている感じがする…、わたしが言ったことの言外の意味を取られて笑われたりすることとかが、つらい、ということが良くある。それとか他の人が言った言外の意味がわからなくて、怪訝な顔をされたりからかわれたりすると、自分の能力の内部分を笑われた感じになって、つらいなあ、と思う。


でも、超音波聞こえる人たちにしたら、好きで聞こえているわけじゃないし、聞こえているからには使う、というか、反応するって感じなのかな…。そうらしいことを言っていた、友だちが。


自閉症スペクトラムの人が言葉の意味をとても優位にする、というのは、コミュニケーションをとる上で、まったく手探りだから、手がかりになるのが、言葉しかなく、唯一手に入る情報である言葉を一生懸命精査して、そこから意味を探し出す、ってことなんじゃないかなあ、と思う。


だから、これは人生の結果でもあることだし、もともと、人の表情や非言語コミュニケーション能力が少ないことのせいで、言葉にすがりつく、ってことでもあるんじゃないかな。


地面とくっつくための碇が言葉しかないから、だからせめて言葉には正確で、誠実でいたいと願う、みたいなことがあるんじゃないかな…と思います。


そして、その言葉を発した人の関係性のことは、つい頭から抜け落ちるので、言葉の内容だけストレートに受け取ることが多いなと思います。
褒められたら、仲の悪い人でも、良い人、みたいになっちゃうのは、それが皮肉で言われたとしても、言葉が「褒めている」内容だったら、「褒められている」ってとっちゃうんだし、それは関係性のことを忘れてしまうから。
忠告されたら、仲のいい人からでも「否定された」になっちゃうのは、言葉が「現在のわたしの行動に対して批判した」という風にとってしまって、その前後の文脈が吹っ飛んでしまうから。

行動をよりよくするため、っていうのもよくわからない。今の行動、が最善だと思ってしたから、そして、それは終わってしまったことだから、それについて何か言われる、ってことがよくわからないから、「忠告」に対して、身構えてしまうんじゃないかなあと思いました。



けっこう、瞬間瞬間で生きているから、長期的な展望がなく、そのため忠告が受け入れにくかったり、それまで忠告される状況と言うのが、静かではなく、発話者の感情的なタイミングでなされることがあって、どうしても避けやすくなるんじゃないかな、と思います。


ラインのスタンプの、言葉の意味はわかっても、絵の意味がわからないから、ちぐはぐなスタンプを送ってしまったりすることも、そういう理由からかなと考えてみました。