c71の一日

生活の記録

被害者は加害者の事情を慮りながら、抗議をするべきか

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過剰防衛だったのか、叩きすぎていたのか、それはわたしなりに考えるものがありました。
やりすぎだったのかは、自分なりに反省しました。
でも、他の人に言われるのは、違うと思っていました。
のんさんにたいして、やりすぎていたのかどうか。
わたしは自分で考えるべきです。
でも、それをわたしに背負わされてはほしくないのです。

自分自身で考える分には良いのですが、他人に言われたくないと思います。
もし、そうなら、自分で当事者になってほしいと思います。
抗議は、当事者でなくてもできるからです。


そんなによりよい方法があったのなら、どうして、してくれなかったのか、疑問がわきます。
わたしは抗議をする過程で、中傷もされました。
だから、中傷をされたわたしに、もっと、相手のためを思った抗議ができたはず、やりすぎでは、と言われるのは困るのです。
わたしは最善を尽くしたからです。

わたしが強そうに見えるからと言って、万能ではない、ということです。


被害者の苦痛を軽視していないのか、問いたいのです。
わたしや、宮沢さんの困難や苦しみを、誰か、なにかしてくれたのか、ということです。
それはしないで、加害者を気の毒がる、というのは、おかしいのではないでしょうか。


確かに、あの加害者には、気の毒な要素があります。
でも、だからといって、「彼女は一生懸命生きている人だ」という意見が被害者へ向かうのはどうでしょうか。


被害者や抗議者に、被害の正当性や、抗議の方法や程度の正当性を求めることは、被害者に多大な負担を強います。


(これも主張していると被害者面をしていると言われる場合がありますね。もしくは被害者なら何をしても良いのか、限度がないのか等)


このような状態を正しさ、正しくなさ、間違い、で論じられるものではないと思いますが、わたしはおかしいと思います。
もし、本当にそう思うのならば、加害者に寄り添ってほしいと思います。
(加害者が加害を繰り返さないようにするため、ケアも必要だと思います。しかし、それは被害者の役割ではありません。ここは強調したいことです)



彼女は、表現者に、批判を受け入れるべきだと主張しながら、その批判に、「中傷発言」「差別発言」を含めました。
また、上記のエントリを書いた後、
のん(non) on Twitter: "文章を綴るのは好きだけど、そこで評価されたいとも思っていないし実際されない。好きなこと好きなように書ける国に生まれたんだから人にアレコレ言われる筋合い無い。"
のん(non) on Twitter: "結論:わたしはぜんぜんわるくない"

この二つの発言をしています。
自分が批判されることは受け入れないようです。
(たぶん、twitterに書くことを表現だと認識していないのだと思います。だから、自分はtwitterに書くことは、表現ではないから、批判されない、批判の対象ではないのだと思っているのだと思います。そして、ディベートをするべきだ、と言っているけれど、ディベートをのんさんの意見を取り入れさせるための話し合いという風に解釈しているようにも思えます。そうではない反応を感情的だと表現しているのかと。
だから、言葉が違うので、やり取りに齟齬が生まれるのかなと個人的には思いましたが)


表現者への批判というと、ややこしいですが、のんさんは「表現する限り、批判を受け入れるべき」という主張をしました。そして、宮沢さんに、誹謗中傷を含んだ発言を「批判だ」と言いながら、それを突きつけました。そして、それを受け入れないことは、表現者として失格だという意味のことを言いました。
具体的に批判を受け入れる、というのはどのような状態を指すでしょうか。
私的に全面的に従うことでしょうか?いいえ、そうではありません。
批判に対して反論することでしょうか?それも、違うでしょうね。

のんさんは、自分でも、twitter上で、表現していますが、自分が批判されたり、言い返されたりすることは受け入れられない様子です。
自分が、相手の慌てようや傷つき方を観察して楽しめるとき、自分の言う通りにするときに限り、自分が表現している事実を受け入れているように見えます。



それは加害です。彼女が、誹謗中傷をし、被害者が、傷つき慌てふためく反応を返して、彼女がそれを楽しんだという事実が、虐待であり、加害です。


宮沢さんは、加害行為から逃げることができませんでした。
その加害行為をした上で、上記の二つのtwitterでの発言をすることは、自分に対しての批判をすることを認めない意思があると取れます。
自分はしてもよく、他人にそれは許さない。そう読み取れます。
けれど、ツイッターに文章を書くことも表現のひとつで、批判され得ます。



わたしの抗議が、やりすぎなのでは、と思われる方がいるのは承知しています。
でも、わたしは彼女の気持ちよりも、わたしの知り合いが、精神の健康を損なって死にかけていることの方が問題でした。
差別は許されていないから、差別者に反論する。
それは正しそうですね。
でも、正しいからと言って、そこまでしてはいけないと言うことですね。
でも、誰かが、差別はいけないとはっきり言わなければ、わたしの友人は、死んでいたかもしれません。
わたしも、彼女からの暴言を受けて平気ではありませんでした。
平気な振りをしているだけです。
暴言は暴言で、加害で、わたしは加害を受けたのです。
彼女からのわたしへの加害は、わたしの方が強いのだから、我慢すべきだ、と思いますか?
そして、わたしは、そうは見せてませんが、それなりに傷ついたのです。
そして、彼女の気持ちよりも、彼女の差別に関して抗議することを優先した、という経緯です。
彼女が病気だからと言って、触らない、ということは、それはそれで問題があるのではないでしょうか。
少なくとも、わたしの友人は、病気が悪化していました。
のんさんは、友人の衰弱を嬉々として観察しながら、さらに虐待を加えている様子でした。
こうあらねばならない、という論理を振りかざして、加害を行っていたのはのんさんが先です。
そして、こうあらねばならない、という論理のために、弱っているのも、のんさん自身の問題です。
そのことは、わたしがどうにかすることができる問題ではありません。
領域を侵すことになります。わたしは、抗議し、加害行為をやめさせ、謝罪を取り付けることを望んで、行動しました。
その結果、謝罪を取り付けるまで、抗議し続けると、のんさん自体が限界になることを思って、やめました。
その一方で、ログを残しておくことは、わたし自身のために必要でした。
わたしも、加害行為をされたからです。


わたしが強いのか、弱いのか、誰が決めるべきでしょうか?
わたしは正しそうに、強そうに、見えるでしょうか。
わたしは文章の腕力という意味では強いです。
でも、この件に対して、すべての面で強かったと言えるでしょうか。
わたしを強いとか弱いとか裁くのは誰でしょうか。
わたしは裁かれたくないと思います。
裁く行為をする人がいたとして、その人がそれをするのは自由ですが、わたしはそれを真に受けたくないし、受け入れたくもないのです。


わたしが強い被害者だったら、抗議をしてはいけないのか、わたしが弱い被害者だったら、抗議をして良いのか、のんさんが、強い加害者だったら抗議をして良いのか、のんさんが弱い加害者だったら抗議をして良いのか、これだけで、かなりのパターンが生まれますね。
わたしはそのすべてを考えるべきでしょうか。
それだけのコストを、加害を受けながら、考えるべきでしょうか。
それを私に要求すると言うことは、他の人にも要求すると言うことになります。
わたしにだけ、そういうことを求めるのはフェアではないからです。


明らかな加害者がいて、それにたいして、抗議すると、抗議する側の方が強く見えて(特にわたしは言論腕力が強いから)、加害者の心配をすべきじゃないのか、と言ってくる人がいます。
でも、わたしは思うに、加害者は加害者であって、加害に対して抗議をするときに、慮っていてはできないと言うことです。
もしも、本当に加害者のことをかわいそうだ、事情がある、と思うのなら、被害者に対して求めないで、自分自身で、加害者を癒すべきだと思います。


加害されて、被害者は疲れています。
その上に、第三者から「もっとこうすべきじゃないのか」と提案されることは、非常な負担になります。
もしそうならば、その最善策を、自分自身で行っていただきたかった、と思うからです。
差別行為に対する、抗議行動は、当事者じゃなくても取れるからです。
また、被害者に対して、加害者のケアまで求めるのはおかしいです。
正しい抗議の仕方は、第三者から見ると、第三者の数だけあり、それに従うことは事実上不可能です。
不可能なことを求められると困ります。
加害者を気の毒に思うのなら、被害者を責めるのではなく、加害者に寄り添ってほしいと思います。




そういうわけで、もし、のんさんを気遣うのなら、わたしに対してやりすぎかもしれなかった、と言うことも大切だと思いますが、そう思うのなら、のんさんを労ってあげてください。
(なぜか、こういう経緯の場合、被害者を労る人は少ないのですが、人の好みもありますね)
わたしは彼女を労る人が何人か現れたのを見て、ほっとしました。
わたしに対して、やりすぎなのではないか、というより、彼女自身をケアしてほしいと思います。
それは、わたしの役目ではなく、できないことなので。傷つけながら、彼女の不正を叩きながら、ケアをすることはできないので。
もし、彼女が心配ならば、彼女に向き合ってください。わたしではなくて。


彼女が、加害をし、暴言を吐き、自分で自分のルールを作り、そのルールに縛られながら、矛盾していくことは、わたし自身の罪ではありません。
そして、彼女のありようが、ただ、無害なだけではなく、現実に、作用して、わたしの友人やわたしを苦しめたのは確かです。


差別行為をする相手が弱いのか弱くないのか、判断してから、こちらが、差別行為を指摘するべきなのでしょうか。
指摘して耐えられる相手ならする、耐えられない相手なら見逃す、ということが大事なのでしょうか。
いいえ、わたしはそうは思いません。
加害者にどのような事情があろうとも、それは加害なのですから、抗議するべきです。
被害者がどのように強く見えて、加害者がどのように弱く見えたとしても、被害者にそれほどのコストを払わせる理由はありません。


精神疾患があるから、差別行為をしても見逃す、というのは、問題があります。
精神疾患があっても、差別行為をする言い訳にはならないからです。
差別行為をしても、精神疾患があるのだから、抗議してはならない、というのは、精神疾患を持っているひとを不可知にする行為なのではないでしょうか。
精神疾患を持つ人に禍害を受けても、被害者の方が、精神的に強かったら、耐えなくてはいけないというルールができたら、そこには問題があると思います。


やり方については、常に考えなくてはなりません。
ですが、話が通じない場合、わたしなりに筋を通さなくてはなりませんでした。
あれは、個人攻撃ではなく、表現者や、宮沢さんに虐待的なリプライを送ったことに対しての抗議です。


やり過ぎとは誰が決めるのでしょうか。
どういう基準でできるのでしょうか。
加害者はやり過ぎではなかったでしょうか。
被害者だけがやり過ぎを気にするべきでしょうか。
相手が、具合が悪くなったり逃げたらやめるべきでしょう。
のんさんは、加害行為の結果、宮沢さんが具合が悪くなっても、嬉々として、続けています。
反応を待っていました。
そして、わたしに抗議されて、具合が悪くなると、謝りもせず、具合が悪いと言いました。
だから、わたしは追及をやめました。しかし、のんさんは、具合が悪くなっても、宮沢さんや、わたしに対する謝罪はできたはずです。しかし、謝罪をするどころか、いったんした謝罪を取り消し、その上で、わたしや、宮沢さんに対する、失礼な言動をやめませんでした。
それには精神疾患は関係がありません。精神疾患は、そういうものではありません。
精神疾患が、そのようなものだったら、困ります。
精神疾患にはいろいろなものがあります。ありますが、だからといって、社会の一員だったら、ルールを守らなくてはなりません。わたしはそう思います。

わたしはわたし自身や、宮沢さんのために、ログを残しておき、自分の気持ちを書き記しておく理由がありました。なぜしたのか、どう思ったのか、どう解釈し、どのような加害で、どんな問題点があったのか。
わたしはのんさんへの人格攻撃はしていないつもりです。
(したかもしれません、ちょっと自信がありません。しかし、抗議者にばかり無謬なき抗議を求めることは、フェアではないと思います)

少なくとも、バカ、とか、そういう侮辱の言葉は書いていないつもりです。
だから、それ以上のことは、慮れなかったと思っています。
それで、わたしの「正しさ」は担保されていると思います。
正しさにはいろいろな種類があって、わたしの正しさがすべてではなく、また、正しさが不適切な場合もあると思いますが、前提として、彼女は加害をしたのです。
正しいことが嫌いな人もいると思いますし、正しさが人を傷つける場合もあると思います。
でも、さきに、のんさんが加害行為を(楽しんで)行っていたのです。
だから、わたしは抗議しました。
差別行為をしていたからです。

加害者を「弱い人」と決めたり「強い人」と決める作業を、被害者がすべきでしょうか。
わたしはそうは思いません。
強そうに見える人が弱かったり、弱そうに見える人が強かったり、するからです。
被害者にかかるコストが高すぎます。
そういうことを被害者に求めていたら、事実上、被害者は抗議をする道を封じられます。
それは、差別を容認することにつながります。
差別者が、弱い人間だろうと、強い人間だろうと、差別をすることは悪いのです。
それには抗議しなくてはいけません。
差別をされ、傷ついている人にとっては、差別に対して抗議をする人がいる、とわかることは、助けになるようです。
だから、わたしはそうしました。
友だちを助けたい、という気持ちもありました。
のんさんよりも、友だちを優先しました。
そのため、抗議しました。


被害者は、加害者を常に思いやりながら、反撃をするべきでしょうか。
加害者は、被害者を思いやりながら、加害をしてくれたでしょうか。
被害者だけに、多大なコストを要求されるべきではないです。
加害者に気を使いながら、抗議はできません。
わたしは自分が正しかった、間違ったことはしていなかったとは思いません。間違っていただろうし、やりすぎていただろうし、正しくなかっただろうと思います。
被害者と加害者が反転していたかもしれません。わたしが加害者で、のんさんが被害者、と言う風に。
でも、あれは必要なことだったと思います。彼女は差別発言をし、わたしや、宮沢さんを傷つけ、宮沢さんが傷ついている様子を楽しんでいたからです。
だから、抗議をしました。