c71の一日

生活の記録

グランディングと仕事、不思議な世界

今日は調子が悪い。

ぐったり寝ていた。ハイになってるときも、ローになってるときも、調子が良くない。
いやなことがあって、落ち込んでいた。

走ることは続けられていて、少しずつ、体力がついて来た。


グランディングを教えてもらったので、そのことを考えている。
頭の中やおなかが、いろいろな感情でいっぱいになって、苦しくてあふれそうなとき、宇宙から一本の棒が刺さって、頭を通って、背骨を通って、座っていたら腰、立っていたら、足から、ずっとその棒が、地球の中心までまっすぐ突き刺さっていることをイメージする。
わたしと地球の真ん中はつながっている。
そう考えていると、ぐっと、からだの中にあった感情が、解けてなくなるような気がして、少し涼しくなる。
これは、一人でもできるし、ヒーラーさんに誘導してもらうともっとよくできる。
ヒーラーの人は、心と心を合わせて、自分のからだに重たいところを写し取ったり感じ取ったりして、「いやな感じ」「不愉快な感じ」「とげとげした感じ」「イライラした感じ」を溶かしてくれる。
そして、どういう方向で考えたり、感情を持っていったりしたら良いのか、舵取りという意味で、方向をアドバイスしてくれる。



昔のわたしだったらやらなかっただろう。別に今だって他の人に勧めたいわけでもない。
でも、今の私には必要なことで、答えもない、形もない、不思議なふわふわしたものに触れているとき、現実を感じられる。
怪しい、魔法のような、こと。


でも、コーヒーを飲んで癒されることや、綺麗なアクセサリー、絵画や音楽で心を動かされることと、あまり変わりがない気もする。
あまり、人の興味を引かないように、密かに存在しているから、研究の対象にならないだけで。
でも、それで良い気がする。
病気も治さない、現状も良くしない、だけど、心が少し静かになる。そういう、役に立たないこと。でも、心のためになること。心のためになること、って何か、本当は誰もわからない。
こういう不思議なものがあっても、なにも邪魔じゃないから、あっても良いんじゃない?別に誰かにおしつけたり、勧めたりしなければ、自分が必要ならば。

あっても良い、なくても良い、わたしには必要。


心なんて不確かなもので、現実をとらえているから、現実を不確かなものでとらえ直すと心が静かになるのかもしれない。


心なんて誰も見たことがない。脳みそのことだって、未だよくわかっていない。
でも、確かに、心を中心にして物事が動いているときがある。
出世だとかお金だとか、そういうことが大事な一方で、それで満たされない自分もいる。
満たされない、と感じるのは、「心」のもつ価値観なんじゃないかな、と思う。
わたしの心はとても乾いている。


脳を通して、世の中を見ている。
物質を見ている。
脳は一人一人違う。
だから、見ている現実が違う。
いる場所も違う。座標が違う。食べているものが違う。
何もかも違う。
理解できない。


心という不確かなものがあって、それをさらに価値判断する。
何が大切だろうか、何がいらないのか、視界にあっても認識しないものを区別するのは心。
嗅いでいても興味を抱くのか抱かないのか、決めるのも心。
心が現実を決めている。
心が自分と世界の境界の線を引いている。
心が弱っていたら、境界も弱まっていく。
心の助け方は、あまりよく知らなかった。


わたしはいわゆる、キラキラしたスピリチュアルの「前向き」「ポジティブ」「感謝」という方向は好きじゃないのだけど、最近であったヒーラーは、「自分を見つめる方法」を教えてくれるので、気持ちが落ち着きやすい。
「死んじゃいそう」でも「死ねない」の繰り返しで、振り子のように激しく揺れていたわたしの心は、正確に分析することを身につけ始めた。

「疲れている」というのも、栄養が足りないのか、運動が足りないのか、頭を使い過ぎなのか、心を使い過ぎなのか、からだを使い過ぎなのか、いろいろある。対処法も、栄養を取るのか、休養をとるのか、運動をするのか、静かにするのか、表現するのか、それに合わせてある。


今までは仕事でミスをしたら「もうダメだ」と焦っていた。でも、「もうダメ」じゃないかもしれない、と思うようになった。もう次はない、と思っていたけど、次はある。次はあるから、目をそらさないで、ちゃんと見る。相手の気持ちや心に、きちんと合わせていられたかどうか。
自分のことばかり考えていると、嵐のように心が振れて、考えなくなる。考えないように、混乱する。

どうしたら良いかというのは、つらいときには考えにくい。考えにくいけど、相手のために、どうしたら良いのか、考えていると、自分がどれだけダメか考えているときよりも楽だ。
自分がダメなところや、どれだけダメなのかひとつひとつ数えていくと、きりがなくて、しんどくなる。
自分の良いところを買ってくれている人もいることを信じられなくなってしまう。
上の空で、イライラする。

ダメなときダメなことを考えても良くない。
本当は何も考えず休養をとったり、からだを動かせば良いんだろうけど、そうもいかないときがある。


ダメな部分、というのは、具体的なところじゃなくなってきた。
もちろん、服装を注意されたり、ということもあるのだけど、そうじゃなくて、相手の希望を読み取る、感じる、ということがどこまでできているのか、ということになってきた。
そういう、言葉にできないことや、数字にできないことが求められる。
数字や結果に結びつく仕事なのに。
でも、求められていることは、違う。


具体的ではない、答えのでないところで、ダメな部分が見つかったとき、そういうときには、自分がダメなところを数えるのではなくて、でも、良いところを考えるほど元気でもないから、他の人に自分ができそうなことを考えると少し楽な気がする。


学生のときは、合理的なものを信じていた。
今は仕事をしていて、理屈通り教えても、結果が違うことを肌身で感じる。
同じことや方法や、答えを教えても、相手に入る場合と入らない場合がある。
勉強なんて、誰が教えても同じだと思っていたけれど、そのときの気持ちや、声の調子や、雰囲気、そういう、不確かなものが占めている割合が多いことがわかって来た。
相手の心に合わせる、という、非合理的な、理解しがたい、夢のようなことをする。
昔だったら、非現実的だ、と思うことが、今のわたしの現実だ。


教える、ということを通して、だんだん、相手のことを汲み取る、相手のわからないところを感じる、不安を読み取る、というフィーリングの部分が強くなって来た。
これは、自閉スペクトラム症だから、人の気持ちを読むことが難しい、という分野とはさらに違って、気持ちじゃなくて、思惑でもなくて、魂の部分に触れる部分だと思う。


相手が望んでいるもの、将来、希望、輝かしいこと、苦しんでいることの色を読んでいるのだ。そんなことはできるはずがないことなのに、でも、そういうことをしている。夢の中で働くことに似ている。