c71の一日

生活の記録

選べているか

自分がそうしたいと思っていることを選ぶことは容易い。
何がしたいのかわかっているからだ。
でも、そうしたい自分になることを選ぶことは難しい。


どうして、その目標を目指すことに決めたのか。
その目標を思いつく自分になることができたのはなぜか。

「自分」は、過去の自分の総体だ。その総体が培って来た価値観で、何かを新しく選ぶ。
だけど、その過去の自分がすかすかの自分で貧しかったらどうだろう?
なにかを目指せただろうか?


わたしは今時給の高い仕事に就いている。
だが、今の職場に就けたのは偶然だ。
たまたま、新聞を取っている家庭にいて、親が、その広告を見て、わたしに勧めてくれた。
わたしは勉強ができ、子ども相手が苦痛ではなく、応募した。
応募先で、わたしの経歴を上司が気に入ってくれて、その場で採用してくれた。
情報を得たのも、そのとき、わたしが体調が良かったのも、上司がわたしを気に入ってくれたのも、偶然だ。


今の職場は競争が激しい。成績が悪かったら、仕事をもらえない。それで、やめていく人も多い。離職率が高いわけではないけれど、食べていくのが難しい人もいる。
勉強ができても、子どもに人気がなかったり、人気があっても、親受けが悪かったり、結果が出せなかったりといろいろの理由がある。勉強のできる、できないも、その人が今まで生きてきた、過程が影響している。

わたしは教育熱心な親の元で育てられただけではなく、うまれつきの資質として、勉強に向いていた。だから、勉強をした。そして、単に知識を身につけるだけでなく、勉強の世界に没頭する楽しさを知った。だから、生徒にも教えることができる。
わたしは、勉強を楽しいものだ、世界を広げることは楽しい、と思うことを選んだ。
だけど、それまでの前提は選べていない。


生まれて来たことだって、選んでいない。
暴力にあったことも選んでいない。
ハンデも選んでいない。


得をしている部分も選んでいない。


自分にある部分の中で、できること、狭い範囲で選んでいる。
それを、がんばっているとか、一生懸命やっているからだ、と思えるほど、傲慢でいられない。



わたしが書くことを、陰謀論とか、文句を付けているとか、男女の性差をなくしたがっていると思う人もいるけれど、そういう人は、わたしが書いたことで傷ついた面もあるのだろう。でも、今、傷ついた、ということは、その裏で傷つけられ続けた人もいる、ということも示している。


男女のどちらが優れているのか、わたしに決めることはできない。そして、興味もない。
飛び抜けた天才は男性に多いとか、平均的には女性の方が成績が良いとか。
その尺度自体も男性中心社会が決めたものだと思うと、それに意味があると思えない。
何をもって天才というのか、わたしは決めてない。だから、そのことに意味がない。
だけど、今あるルールの中で、一応公平に競争しているはずなのに、女性の方が成績が良くても、男性の方が優先して、採用されたり入学できたりする現状はおかしいと思う。
もともと、女性の方が、教育機会に恵まれなかったり、家庭も世の中も、それを推進していなかったり、女は賢すぎるとかわいげがないと言われたり、女の賢さはこのようなものだと示されたり、そんな中で、優秀さを示す、ということは、そもそもたいへんなことだ。
そのたいへんさが、報われず、機会も奪われている、ということは、わたしは看過できない。


男性は優秀でなくてはならない、という呪縛にとらわれているように見える。


その呪縛の息苦しさが、女性への攻撃に向いているようにも見える。


ある種の男性は、わたしが書いたものを読んで、傷ついたのだと思う。
自分が男性でいることは選べなかったのに、ということで。

でも、わたしを攻撃するかどうかは、選べたはずだ、とも思う。だが、その、攻撃するかどうか考えるような土壌を、その人が選べてきたか、というと、そうでもないのだろう。


男性中心社会のゆがみの責を、「母」に負わせた者もいる。そのように育てたのは、母だろうということだ。
でも、「母」になる人も「女」で、その人は今よりも強い抑圧の中で、世の中に適応しろと迫られて来て、生き延びるために、そうして来たのだ。


自己表現をすることができないから、子どもに夢を託す、ということは、今では正しくないと感じる人が多いが、当時はそうではなかった。今だって、男の夢を支える女が素晴らしいというではないか。男が去ったとき、何も残らないのに。
子どもは去っていかないと、みんな夢見ていたから。



ミソジニストは、わたしが文句を言っていると、思う。
そして、わたしを攻撃する。
また、自分がこうなったのは、母のせい、だとか、フェミニストがなんとかしろ、とか、言う。
彼らは自分が選んで来たとは思っていない。
しかし、同じ口で、自分で選んだことだろう、と他者のことを責める。
自分で選んだことを頑張るのは素晴らしい。
だけど、その前提条件で、それしか選べないように、選択肢を狭められている人たちがいる。
選べなかった場所を、「頑張れなかったからだ」と責められることはつらい。
悲しい。


ミソジニストだって、選んで来ていなかった。
わたしだって、全部を選べていない。
誰も、選べていない。
選べているつもりでいるだけだ。
だから、せめて、出来る範囲では、公平にあってほしい。
公平そのものが、危ういけれど、でも、せめて目に入るわかりやすい基準だけでも。
そして、選んだことや、選べなかったことで、差別するのはやめてほしい。
やめたい。そう思う。