c71の一日

生活の記録

女性的、男性的

わたしは、男性的な領域とされている思考能力に長けている。
これは測ったことだから、確かだ。平均よりも出来る。
だからこそ、言うけれど、そのことにあまり意味はない。
男性的な考え方の方が、女性的な考え方よりも優れていると言うことはない。
そして、もっというと、男性的な考え方、女性的な考え方、という分け方にも意味がない。
長い間、抽象的なことや、哲学的なこと、科学的なこと、論理的なことは、男性的な考え方の領分とされて、女性の持つ資質よりも優れているとされて来た。
そういう歴史がある。
女性は、具体的で、非科学的で、直感的で、感情的だとされて来た。
でも、それのどこが劣っているんだろう?
全然劣っていない。そして、その分け方にも意味がない。


男女には性差がある、とか、男女は別の生き物だから仕方がないとか言うけれど、男女が本当に別の生き物だったら、交配できない。そういうことを言いたいわけじゃないんだろうが、でも、しっかり反論すると、そういうことになる。わかり合えないと言う人は、男女の育て方があまりにも違っている、ということを、否定しながら結果的に肯定している。男女がわかり合えないのは、生物的に別だから、ということは、なく、他に要因を求めるならば、環境要因が異なっているからだ。



性差で男女のどちらかが優れているか劣っているか、を論じるのには本来は意味がない。しかし、意味があるのは、男性よりも女性の方が劣っていると思い込んでいる人の考えを改めるために、女性の方が、勉強に関して優れた成績を残している、とデータで示すことだ。データでしか納得できない人が存在するので、やっぱり、その研究は役に立つ。男性的な思考が優れていて、かつ、自分が男性だと信じている人は、男性的なアプローチによる、その根拠の否定しか受け入れられないからだ。


女性は、不利だ。だけど、その不利な部分が、男性には見えないらしい。だから、不利だということを示す必要がある。だが、その行為自体も忌み嫌われる。それは、男性が自分たちの地位を揺るがせられたくないからだ。


女性と男性を分けるのは、法律や、常識的に言って、外性器の有無だ。内性器ですらない。
男女が異なる、と言いたい人は、外性器が及ぼす影響を大きく見積もっているようだ。