c71の一日

生活の記録

わたしの心

わたしの社会的発達は遅れている。
だから、心の感じ方も人と違う。
確かめたわけじゃないのだけど、検査でそうだったから、そうなんだろう。いくつくらい、とはいわれなかったけれど、行動からすると中学生や高校生が出来ることをようやく理解できるようになった感じ。十五歳くらいの感じ。
今でこそ、心の発達を心がけているけれど、診断前は、そもそも年齢に合わせてこれが出来るようになっておかないといけない、という概念があったかも怪しかった。
大人になったら働いて自分で稼ぐ、ということも、なんで?と理解できなかった。

今思うと、それこそ、なんで?という感じだけど、それだけ「将来」「未来」という概念がよくわかってなかったんだろう。予想をつけるにも、自分が大人になるっていうことがよくわかってなかった。


ある瞬間「あ。わたし大人だ!」という気がついたので、それから働いている。あれより遅いタイミングで気づいたら取り返しがつかなかったかもしれない。それまで面倒を見てもらうのが当たり前、というか、そういうもので、自分はどこにもいけない、一人で生きていけない、と思い込んでいたので、つらかったけれど、「大人だから働いてお金稼いで、一人暮らしできる」と気がついたとき、風が吹いたようだった。


そういうわたしでも、将来に対する漠然とした不安はあったので、「いつまで親の心のケアをしているんだろう。わたしはケアするための人生でこのまま死ぬのかな?」と、何度か死のうと思った。けれど、その度にお医者さんに止められたので死ななかった。なんのために生きているのかはわからないけれど、あのときほど、生きていることが不愉快ではない。



何もつかまるものがない場所で溺れているようだった。
わたしは教育で与えられたものが恵まれていたから、それで生き延びられた。
美術や工作をたくさんさせてもらったり、スポーツもさせてもらったり、勉強の機会を与えてもらった。それは、そのままお金を稼ぐ糧となった。わたしは幼稚園の頃に、糸鋸の使い方を教わっていたし、のこぎりもトンカチも使えた。彫刻や焼き物もさせてもらった。彫刻は一番好きだった。絵を描くことも好きだった。


わたしの成長は、知識や合理性や、図工などそういうところに発揮された。
そして、家事、責任感、社会的ルール、そういった方面には伸びなかったし、子どもが体験するような葛藤をそのころ体験していなかった。中学生や高校生と話すと、そんな難しい人間関係を細かく把握しているんだ、ということに驚く。相手の気持ちを読んだり、気遣ったり、直接的なやり取りのないところで、戦っている。そういうの、わたしは、まだ、「無駄だな」と思ってしまうが、これも、おいおい体験するのかもしれない。わたしは今まで、言葉にできないことがあるのは自分の表現力が未熟だからで、磨いていければなんでも言葉にできるんだろうと思っていた。でも、読書経験をするにつれて、どうもそうでもないらしい、と気がついた。


なんでも言葉にはっきりできるなら、「この文章から友情の大切さを学んでください」というスローガンだけ出して、小説にする必要はないんじゃないか?と思いついたからだ。


武者小路実篤の「友情」なんて、特にそうだ。あれは、最初意味が分からなくて、大人になってから意味が分かった。でも、なんとなく、言葉にできないことをこの人は書いているのだな、とぼんやりと思ったのを覚えている。だから、言葉がすべてじゃないと、学べた。
わたしは児童文学、童話、神話、精神分析、心理学、法律、明治、昭和の古い小説の全集を小学生のときに読んで、それで世の中を学んだ。仕組みやシステムや秩序のことを考えると、気持ちが落ち着いた。知っているルールをそのまま適用しないと気が済まなかったり、周りの人がマナーやルールを破ったら許せなかったし、間違った知識を披露している大人がいたら、いちいち遮って訂正していた。
けっこう迷惑な存在だったと思うけれど、自分でどうしたら良いのかわからなかった。正しいことを言っているのに疎まれるから、苦しかった。正しいことがすべてじゃないと、母親がいった。
そのことをずっと考えていて、今に至る。



小学生の頃、本を読んで、すべてを学んだ気になった。他に教えてくれる人もいなかったし、そうするしかなかった。本を読むとノイズキャンセラーみたいに、世界を遮断できるのも良かった。今でも児童文学も海外小説も大好きだ。
医者に話したら、本を好きなのは、どうして?と言われたので考えたところ「昔の人と、いつでも話が出来るところ」と答えたら、驚かれた。本を読むとき、わたしはその本と会話しているつもりだった。一方的かもしれないけれど、どうせ、わたしの場合は、人間同士でも一方的に話し続けることになってしまうのだから、落ち着いて、いつも同じ態度で迎えてくれて、わたしの速度に合わせてくれる「本」という対話相手は、わたしにとってうってつけだった。


そういうわけで、わたしにも「悲しい」「嬉しい」「楽しい」「怒っている」という気持ちがあるのは理解できた。自分の中の感情も言葉にでき、相手が「悲しい」といえば、自分が悲しいと呼んでいる感情を呼び覚まして、一緒に悲しんだ。


でも、言葉にならない態度というのは長い間苦しんだ。
相手がはっきり言ってくれないとよくわからないし、はっきり言われても具体的じゃないと、違うことをイメージしてしまったりした。そして、はっきり言われることで傷ついたりした。
はっきり言われないとわからないけれど、はっきり言われると傷つく。難しい。
厄介。
そう思われていたと思う。
また、困りごとと言えば、とくに「あなたはこう思っているはず」といわれると、素直に「そうなんだ、実はわたしはそう思っているんだ」と鵜呑みにすることが多かったような気がする。それで良く混乱した。



今困っていることと言えば、社会のルール。
常識。
そんなもの、隣に行ってしまえば違うと言えばそれまでだけど、わたしも組織の中で働いているから、一応、この組織の決まり事は理解しないとやりづらい。この前とうとう、上司に、「反抗しているわけではなく、本当に塾講師らしさというものに、常識がないので、ご指導下さい」と言えた。言えたことで、ずいぶん楽になったし、進歩したと思った。常識のなさで失敗したけれど、そのことを素直にいって、相手に指導してくださいと言えたのはすごく進歩で、だから、常識自体がなくても、素直に教えてください、と言えるようになったのが、わたしの社会性の成長だと感じた。



上司はプライドが高いと良くないとか、こういう風に考えると良いとか、社会人の決まり事を教えてくれるから、怖いときももちろんあるけれど、こちらからも、けっこうどうしたら良いのか聞きやすい。上司は、どの瞬間も社会人らしくあれ、ということを言いたいのではなくて、職場での振る舞いだけをかなり具体的に注意してくるので、割り切って聞きやすいから、よかった。だいたいの人にとって具体的でも、わたしにはわからないこともあるので、そういうときは、あとで聞いたりする。


わたしにはばっちり二次障害もあって、いろいろ困ったこともある。


そもそもの特性のせいか、性格のせいか、わからないけれど、相手に当たり散らしてしまったり、気を使えなかったり、具合が悪くて、二日連続でごはんを作ってもらっているのに、横でネットしていたりしてしまうときがある。そういうの、感じ悪いかもしれないなー、と思うけれど、うまく変えられない。わたしにとって、そのとき、ネットをするのが一番心が安らぐし、その瞬間していないと、爆発しそうだからしているので、我慢できないのだ。でも、自分がされたらすごくやだな、とも思う。難しい。


わたしはどこかのタイミングで、たぶん小学生だったけど、「誰からも好かれることを目指すのはやめよう」とはっきり決めた。
それは、母に言われたのかもしれないし、自分で考えたことなのかもしれないけれど、好かれなくても良い、とはっきり思った。
小学生の高学年の先生がとても良い人で、独創性を重んじてくれる人だったので、わたしはそのクラスの中で突飛ではなかった。なにをしても浮かなかったし、尊重され、尊敬された。わたしも、クラスメイトを尊敬していた。その先生が教えるとどんな子でも、誰もが勉強のできる子に変身した。勉強ができ、思いやりがあり、面白い話をいきいきとして、誰も授業を遮ったり、騒いだりしない。そういうクラスだった。


毎日わら半紙を十枚以上渡されて、マジックで思いついたことをつぎつぎ書き留めて、人前で発表する、という授業を毎日していた。分数の割り算も、円周率の求め方も、みんなそれで頭をしぼって勧めた。先生から答えを教えてもらうことはなかった。今ではそんなやり方はいけないと言われるのかもしれないけれど、どこのクラスでもいる、分数の出来ない子は、そのクラスには一人もいなかった。勉強が不得意な子も、自分の考えを発表した。出来ないからこそ、思い浮かぶ独創的な考え方に、みんなが感動して、拍手喝采して、照れ笑いをしていた姿など今でも思い浮かぶ。
自由と秩序が調和していて、とても落ち着いた時期だった。
焼き物を作りにいったり、野菜を育てて観察したり、プロの料理人を招いて、料理を教わったりした。校長先生も理解があって、理科の実験に協力してくれたりもした。


ひとのはなしている言葉を聞き取って、書けるようになったのは、あの時期があったからだと思う。
書いてある言葉よりも、その人が、今、生き生きと語っている、音になってすぐに消えてしまう言葉に、無秩序に押し出される言葉にこそ、大事なものがあるから、それを書き留めないといけないと強く思った。瞬間瞬間をきりとって、大切に保存しておきたかった。


あのころ、わたしは自尊心や自己肯定感を育てたのだろう。あの先生にとって、わたしはただの一人の生徒だったかもしれなかったけれど、わたしは、あの先生が世界のすべてだった。
世界のすべてのルールを統べる人が、公平で、ユーモアに富み、厳しくもあったことが本当に救いだ。


中学は地獄としか言いようがなかった。秩序がなく、暴力があって、先生は公平ではなかった。家庭に対する差別もあって、母子家庭の子とはつきあうなと担任にやんわり言われた。わたしはASDの特性上、そのやんわりが理解できなかったので、彼の思う通りにはしなかった。できなかった、とも言う。わたしは体力もあって、勉強があったから、表立ってはいじめられなかったけれど、学校がつまらなかったので、授業中も、荒れていたら、本を読んで過ごしていた。わたしは激しく混乱し、いつも怒っていた。


その頃からわたしは、世界から解離して、成長を止めてしまったのだと思う。周りの子が色恋に目覚めたりファッションをし始めたりすることにも無関係だった。その時間を勉強に充てられたから、良かった面もあるけれど、社会常識を学んだり、他の子と同じような発育をする上では、あまり良くねい面もあった。今では、あとから学べることだとわかったけれど、大人になってから、ふと、「わたしは経験するべきことが抜け落ちている」と気がついたときには、絶望した。中学生から、ずっと続く空白にどう対処したら良いかわからなかった。


わたしは絵を描くことをやめ、テレビを見ることをやめた。文章を書くことだけは、誰も止めなかったので、文章を書いていた。勉強をすることは勧められたので、喜んでした。その頃、わたしには勉強しか楽しみがなかった。いろいろ詮索されずにすむから、勉強は助かった。異常に疲れやすくて、いつも、ぐったりしていた。今思うと、天候の変化や、環境の変化、からだの変化が大きすぎたし、自分にあったタイミングに調節することが難しかったから、生き延びていただけすごい。だから、外に出て遊んだりもしなかった。友だちと、買い物に行ったりアクセサリーを見に行ったりしたこともないし、お店で買い食いをしたこともない。



わたしは、たまたま社会で使える特質があって、働けて、本当にラッキーだった。
これからも、いろいろ、そのラッキーな部分を考えて分析して文章にしていきたいし、アンラッキーな部分も記録しておきたい。
記録魔なのは、悪い部分もあるけれど、全部が悪くないから、まあ良いかなと思う。