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c71の一日

生活の記録

マックスはヒロインにならない #マッドマックス 怒りのデスロードの感想

マッドマックスを見終わって呆然としている。
たいてい、面白く見た。

だけど、いくつかがっかりしたポイントがあった。
以下ネタばれもあります。
娯楽映画だから、こんなにいろいろ考えなくても良い、とも思うんだけどさ!!!!
まあ、面白かったです。


注 ヒロインという言葉を、語源の「女性の主人公」、という意味や、「女傑」、という意味ではなく、主人公に対応する役、主人公の恋人役という意味で使っています。


これから、感想です。イエイ。

マッドマックス 怒りのデス・ロード」 - キリンが逆立ちしたピアス (id:font-da)d.hatena.ne.jp

id:font-daさんの言っていることを、おおそうか、と思いながら読みました。


わたしは、フェミニズム的に良いと聞かされて、映画を観たから、どんだけフェミなんだろう、という期待があった。期待しすぎて、他の映画だったら、気にならないことも気になった。
そういうわけで、面白いのは前提だけど。
面白いと思って観たけれど、いくつかいやだなと思う点もあった。

それは、マックスが、何度か「感情に流されるな」という意味に取れることを言ったこと。
旧来からのイメージ、感情(女) vs. 知性(男)を無批判に続けているみたいでいやだった。獣から解き放たれたとたんにこの態度かよ、と思った。
マックスの「知性」は肯定される。
彼の提案は却下されないのだった。(その顔のまま生きていくの?と聞かれたときには、感情的になったかしら……そのとき、彼の提案は、確かにフリュオサに却下されたと言っても良いのかな)
それはなぜか。


女たちの感情の奔流は、押しとどめられる。
マックスに、感情的になれというシーンはない。マックスは淡々と仕返しはするけれど、いわゆる感情的になることはない。ストーリーは、彼に感情的になることを要請しない。
感情と知性で、どちらが優れている、ということはないのに、マックスの言動は、女たちにただ受け入れられるのである。

もし、女たちが感情的でなかったら、そもそも、逃亡は企てられず、計画もなく、マックスも助からなかったのにも関わらず。


マックスは、女たちが、希望を持って、絶望的な旅路にでるときに、提案をした。
感情のままつっぱしることが、破滅、みたいに描かれている。そして、唯一の光明が知性(マックス)の選んだ道、ということになっているのが、わたしには受けられなかった。そもそも、感情的に逃亡を企てたフュルオサの計画にマックスはただ乗りしていたんじゃないのか、と思った。あのタイミングでフリュオサが逃亡をしなかったら、マックスは助からなかったのだ。フリュオサの原動力は、感情だ。そして、彼女の計画は感情じゃなくて理性的だ。
フリュオサには、感情と知性が入り交じっている。だから、わたしは彼女のことが魅力的に見える。


彼女が希望を抱き、過去を清算しようと感情的に思わなかったら、マックスは助からなかった。


マックスは、「獣」と何度も言われている。前半で、感情や知性を持たない、暴力的なものと扱われている。そこがすごく良いと思う。
感情的、知性を持たない、と言われるのは、虐げられているから、ということが描かれているからだ。
虐げられている者は、抵抗の過程で、知性がない、感情的、と扱われる。
女も、マックスも、ジョーからみたら、獣だし、財産だし、知性のない「もの」だ。
なのに、マックスは、虐げられている者、という立場から脱したとたんに、作戦を練って、リーダシップを取る立場になった。知性を発揮した。彼が、あまりにも自然に、リーダシップをとるのは、なぜなんだろう?
これは、マックスが、ワイブスとフリュオサに対して、支配的になったことを示しているだろうか?
ここは、すごく微妙だと思う。走り出すフリュオサをマックスは止める立場になるのだ!!!



わたしの考えはこうだ、物語やストーリーが、マックスに、支配的であることを要請し、女たちに応えることを求めたのであると。ストーリーを進めるためには、女たちが「女性らしくある」ことがどうしても必要だったのだ。
女らしさが、感情的なことや、柔軟さを表すとしたら、この要素はストーリー上不可欠だった。

彼女たちが女らしくなければ、感情のまま、逃亡を企てず、走り出さない。計画に穴があるのも、彼女たちが感情的だからだ。そして、柔軟にマックスの提案を受け入れるのも、彼女たちが女らしいからだ。
マックスは必ずしも支配者的ではない。だが、ストーリーは女たちに対して、支配的である。
彼女たちを女らしさから解放しないのだ。


ターニングポイントの場面は、画面の向こう側にいるわたしたちに、フリュオサは、「感傷に浸って走り出した」ということを暗示する。マックスは、感情的な女たちを、理性によって止める。このストーリーの流れは、女たちに対して、支配的ではないか?ストーリー自体が、フリュオサとワイブズを女らしく振る舞えと、また女らしい態度が間違っていると、「虐げている」ことを示していないか?
もっとも重要なポイントで、マックスは指導者的な立場を取る。
文字通りターニングポイントで、フリュオサを止める。
マックスは男性で、男性には知性があると言われている。フリュオサは女性で、女性は感情的だと言われている。



わたしには納得がいかない。




また、彼が、旧来のヒロインの立場だったら、彼はフリュオサの言うがまま指示を仰ぐだけの存在だっただろう。
だけれども、彼は男性だからという一点を持って、ヒロインの立場に陥ることがない。免れている。
ヒロインのように、存在そのものが、報酬となることはない。女たちが、多くの物語で、お人形のように、愛される客体としての存在を求められて来たことと裏腹に、マックスは、ただのマックスでいられる。
ロマンティックラブイデオロギーを踏まえた映画に、今まで、女が出ていたら、たいていの場合、エンディングでは「恋人」として、主人公の報酬となることを期待されていたのに。
そのことは、画面のこちら側の、男性たちを安心させることだろう。
女たちが「ヒロイン」を求めなくて済むのはいいことだけれど、マックスはヒロインにならない。
ヒロインと言って良い立場なのに。

マックスがヒーローにならない、ってことが、この映画の良い点だけれど、でも、そこかしこで、マックスの「ヒーローっぽさ」を目にしないわけじゃないので、なんだか納得がいかなかった。


なにもかもフリュオサがお膳立てして、彼女の人脈を使って、しかも、フリュオサは、守るべき「ワイブズ」を抱えている、という前提があるのに、マックスはその上で、賢しげなことを言うことが、わたしには面白くない。


女だったら、提案するとき、もっとおどおどして、遠慮して、相手の気持ちに配慮しながらものを言う。そして、相手が拒絶したとしても、仕方がないと受け入れる。


ターニングポイントで、フリュオサたちは、マックスの提案を受け入れる。ずけずけいうマックスに対して怒らない。彼女たちは、柔軟だ。
女たちは、感情的であることを物語上で期待されているが、柔軟であることもまた、期待されているのだ。


誰がなんといっても、映画の主人公はマックスなのだ、と思い知らされたのがターニングポイントのシーンである。
彼が、映画を支配しているのであって、フリュオサじゃない。(マッドマックスだしね……そりゃそうなのだけれど)

この映画が、男女逆転ものじゃない、ということは、わかっている。ロマンティックラブイデオロギーのない、映画であること自体が優れていることも伝わって来た。それは、わかっているけれど、本当に、マックスが一度もヒロインの立場にならないで進むのか、と思った。ロマンティックラブイデオロギーの下で、女たちはずっと、ヒーローたちの、報酬であり続けた。
ヒロインであることのつらさを女たちは知っている。
それは、生きるための戦略だ。意思を無視されることもあるが、ヒーローに対して、不平不満をこぼすのはヒロインらしくない。だから、不満があるとかないとか、それ以前の問題で、ヒロインは、ヒーローに感謝するものだし、それ以外の感情がそもそもないように描かれる。
イモータンジョーの認識している「物語」の中で、ワイブズは、まさにヒロインだったと思う。
ヒロインは、救出されて、愛という名の報酬となる。
ヒロインの条件として、一番大事なのは、彼女自身ががヒーローの報酬となることだ。
マックスは、ヒロインとしての、つらさを知らないままだ。
映画の中で、彼が、虐げられる者になっても、ヒロインにまでは落ちないのか、あんなに女たちがジョーの財産として描かれるのに、と思った。
ロマンティックラブイデオロギーとたもとを分つことを明確にするための演出だから、仕方がないと、あきらめるべきなんだろうか、限りある時間の中でそこまで求めるのは詮無いことなのだろうか。
(別にフェミニズム映画と銘打ってあるわけじゃないから、良いんだけどさ……そして、マックスは男だし主人公だから、フリュオサにとってのヒロインに決してならないというのもわかっているけどさ……フリュオサも、マックスをそういう意味で欲していない、というところが、フリュオサのかっこよさなのだけど)


ヒロインは、生き残るために、ヒロインとなる。
マックスは生き残るためにヒロインにならない。
フリュオサも、ワイブズも、かつて「ヒロイン」だったが、ヒロインだったことを捨てる。
マックスとフリュオサは、同志になる。
マックスは単なる「もの」にはなったけれど、誰かの報酬になったことはない。(ニュークスにとっては報酬だったかもしれない。輸血袋としての)。だから、彼は「ヒロイン」ではない。
そういう意味で、ワイブズとフリュオサは一度「ヒロイン」にされた者という意味で、同じだけれど、マックスは彼女たちの立場と同じではない。


彼は「男性」という性を侵されない。マックスは、「もの」まで落ちるけれど、あくまで「男性」。
彼が、ケア行為という「女性的役割」を果たすのは、自分の意思である。
女たちが、女性的役割を果たしたときは、自分の意思を「侵された」ときである。
そこが、男性が安心してみられる要素だ。
マックスが、性的に犯されたら、男性たちは安心してみられない。
ワイブズが性的に犯されても、わたしたちは、娯楽映画として観られる。
そこが非対称で、わたしには、現実を反映していて、つらかった。
娯楽映画という枠の中で、ワイブズのことを消費することはできても、マックスの性を消費しないことについて、不均衡を感じる。font-daさんが言うように、これは、「男の理想のフェミニズム」だ。


鉄馬の女たちも、マックスの提案のもとに死んでいく。
死の種を蒔いて、フリュオサたちは、勝つ。
けれど、女たちは、死の種を蒔いても、生の種も、育てることができる。
マックスは生き残り、消える。マックスは、死の種を蒔いても、生の種は育てない。
彼は、それを放棄する。育てない。消えていく。マックスは男性性(=知性、自動車、人工物)を手放さない。
また、女たちが、彼の提案に柔軟さを示したこととは違い、マックスは柔軟にはならない。
物語が、フリュオサをはじめとする、女たちに「女らしさ」(=感情、柔軟性、自然)を求めたのに対して、マックスはケア行為しか求められなかった。彼へ物語が求めたのは、括弧書きの限定的な女性らしさにとどまるのである。



男性にとって、これがフェミニズムをふまえた映画なのならば、変化は、優しく訪れたのだろう。
それは、きっと、良いことなのだ。
男性たちが一度もヒロインにならないまま、ヒーローを下りられるのならば。