c71の一日

生活の記録

排除、暴力装置とワンイシュー

排除がそもそも悪いことだと分かっていない人が多い。
だから、排除は良くない、それは排除になるから考えた方が良いと言われてもピンと来ないんだろう。

それは分かる気がする。
健康で何も問題もないひとだったら、そうじゃない世界やそこで生きる人の心を気にする必要がない。気にしてもメリットがないと言われればそれで終わりだ。
そうかもしれない。
排除すると良いことが多い。
結束力が強くなる、弱い人がいなくなる、意見がひとつになる、まとまりがよくなる。


警察は、反権力を排除する。
今のデモは、ワンイシュー、シングルイシューの名の下に、いろいろな小さな差異を排除するようだ。

若く美しい女性は広告塔に活用し、国民の言葉を使う。日の丸も掲げる。
いろんな人がいて良い、そういう態度。
「いて良い」ってどんな態度?

若くなく美しくない女性はいられない、そういう宣伝に活用する姿勢はないんじゃないの、という人はいられない、国民という言葉にげんなりする人もいられない、だんだん一緒に居たくなくなる。
からだの弱い人も、集えない。
頭数になろう、という言葉さえ見た。
そう、数になれない「わたし」がきっと他にもたくさんいるだろう。そう思って、この文章を書く。

頭数になるには、資格が必要だ。そんなことはないと言う人もいるかもしれないが、健康で、健常で、日の丸がいやではなく、セクシズムに抵抗がなく、国民という言葉に違和感を感じない人だけが、加われる。
加われない、そう思ってしまうのは、わがままだろうか?


そう、どこだって、誰だって、やんわり排除する。している間は良いのかもしれない。でも、いつなんどき、排除される側にならないとは、限らない。
基準を決めるのは、自分じゃないから。
だから、いつも、その基準を設けることが間違っていると言い続けるしかない。


警察と同じでは?
警察は恐ろしい。
暴力を持って、社会を安定させる。
安定させた社会が、どこに着地するかは考えない。ただ、安定させることだけ。


わたしは、その維持される安定の先が怖い。
安定の先が怖いから、考えてしまう。

社会が不安定になることで、戦争が防げるのならば、社会を不安定にしよう。
それは、脅威だから、力になる。権力者は困って、考えを変えるかもしれない。
デモはそういう仕組み。民主主義はそのような形も取りうる。
いつでも、安全で平和なわけじゃない。実力がぶつかることもある。


社会を不安定にするために、デモは有効なのだ。

不安定にすることで、意思を示すことができる。
だから、デモはとても大切だ。

警察や、軍隊に代表される、国が持つ暴力装置は、国の治安を守るもの。守られる側にいる間は、安全。信頼できる。夜警国家というもっとも素朴な国家の形の基礎。
だけど、いつ、自分が排除される側になるのか、それはわからない。誰を排除して、ならずものだと晒すのかを決めるのは、権力側。
権力は、治安を維持するためにだったら、自分の夕刻性を示すためだったら、見せしめに誰かを処罰するし、弾圧する。
その基準を決めるのは自分じゃない。だから、暴力装置は恐ろしい。
恣意的に暴力装置が使われるのを防ぐために、法律があった。
だけど、今は、その法律を解釈によってねじ曲げることが起きてしまった。
法律は国家という獣を封印するための檻だ。
国家という暴力を、飼いならすための檻が壊れてしまったから。
だから、なにももう信用できない。

そして、デモが起きた。
しかし、今起きているデモは自分たちがいらないと判断した人を排除する。排除するのは、目的を遂行するため。その行為は、警察が暴力装置として、治安や秩序のために、「ならず者」を排除することと同じ。
女の人、病人、老いた人。みっともない人。スマートじゃない人。
人からの見え方を考えない人。


もっというと、戦争は「あのならず者国家を退治しよう」という名目で行われることもある。
だから、排除する団体は、結局のところ、国家の模倣をすることになる。反戦争なのに、戦争をしたい側と同じ行動原理で動いてしまっている。



「今は見せ方も考えて訴求力を」「細かい差異にこだわっていたら、人が集まらない」
正しそうに思える。だけど、そうだろうか。
見せ方を考えることで、その見せ方についていけない人は、どんどん排除されていくし、細かい差異にこだわる人はやっぱり排除される。加われない。心を押し殺さないと。


戦争に反対するから、加わっているのに。生命と内心の自由を守るために加わっているのに、一時的なことだからと言って、自分の心を殺すのか、それとも、参加を見送るのか、そういう選択を人に迫ってはいけない。


細かい差異に見えるもの。
それはこちら側から見ると、命を奪われるほどに大きい差異。
障害があったり、病気だったり、国籍が違ったり。言葉が違ったり。肌の色、性別、貧困。
思想。
虐待されて来た歴史。
どうしても、飲み込めない異物がこちらののどに引っかかる。それが言葉を詰まらせる。
どう説明すれば良いのか。
どこから説明したら良いのか。
この緊迫した時間の中で。


そんな時間はない、そんな手間はかけられない、それどころじゃない、と人は言う。
だけど、ひとつひとつの小さい差異を話し合ってこず、マジョリティにとって都合の良いことを続けて来たから、こんな事態になったのでは?


今、政治は、「正しい、立派な、健常な、日本人男性」のもの。それに加われるのは、彼らが「良いよ」「利用できるから、良いよ」「こちらは度量が広いから、あなただったら認めて上げるよ」という承認を得た人たちだけ。



細かい差異を無視することと、細かい差異を話し合って集うことと。
それは、同じに見えるのかもしれないが、とても大きな違いだ。


国という大きなものから、わたしたちが排除されて、その抵抗組織から、さらに、わたしが剥離する。
だから、今、わたしは、シングルイシュー、ワンイシューの名の下に集えない。
心の中でいくら祈れど。