c71の一日

生活の記録

ゆがまないと割れてしまうから

わたしの人生けっこう壮絶だった。

でも、自分のことだから、まあ、普通かなとも思っていた。

だけど、大人になってから、「やっぱりあれはへんだった」と気がついた。

でも、そうすると、「みんなそうだよ」「わたしもそうだったよ」と。

そうではないのだ、ダントツに壮絶だったのだ。


わたしは自分のおかあさんが好きだった。誇りだった。
毎日彼女はわたしに自慢話をしていた。わたしはそれを真に受けるしか生きるすべがなかった。
彼女のやったことを具体的に列挙すると、かなりひどい。


虐待や不幸って、常にあるわけじゃなくて、合間合間に、良い瞬間や楽しいことや、好きなこともある。だから、ひどい目に遭っている人は、小さな幸せを見つけて、それがあるから、わたしは幸せなのだと思い込む力が強い。それで、ひどい目に遭っていることにたいして、鈍くなって、認識できなくて、不幸から逃げ出すきっかけを失ってしまう。自分が不幸だと思っていないから。

でも、きちんと消耗はしているから、結局不幸なのだ。
不幸の怖いところは、いつも不幸が続いているわけじゃないってところ。


良い瞬間がかならずあって、そこで息継ぎができてしまうところ。
息継ぎが出来るから、逃げられなくなる。
逃げる必要も失う。
それが怖いことだ。
逃げるのはとても難しいのはそういうわけだ。
いやなことがあっても、それを補うような小さな良いことが起きてしまうから、自分を誤摩化して、どうしようもないところまで行ってしまう。そして、最後に残った力も奪われて、どこにも行けなくなってしまう。


そのことに気がついたのは、離れてからだった。
離れるためには、それもまた壮絶な経験が必要だった。



今は落ち着いて生活しているけれど、ときどき、刺激が欲しくなる。
「わたしって、今生きているのかな」
「過去を取り返したい」
「おしゃれだってなんだって、したかった。食べたいものを食べたかった」
という気持ちがわいてくる。
わたしの遭った出来事の反映だ。やり直して、生まれ直したいという欲望が、わたしを歪ませる。
だけど、そのゆがみはちっとも悪いことじゃない。
わたしを割らずに生かすために、歪んでいるのだ。
そうして、力を分散させて、わたしを守っているのだ。
わたしが、自分の過去にまともに向き合ったら、わたしの心は壊れてしまう。性格に自分を見つめる時期はいつか来るのだろうけれど、それまでは、わたしは自分のゆがみをゆがみとして受け入れて、コントロールして、自分の傷と向き合える日を待つのだ。