c71の一日

生活の記録

笑えずうめく声よ、いつか届けと

何が社会運動なんだろうと思った。


少し前まではデモに行く人は特殊な人だった。
揶揄されバカにされ、就職できないぞと脅されていた。
今は時代が変わって、デモに行かないと、社会運動をしていないと言われることさえある。

目立って社会から注目されていなければ、運動ではないのだろうか?



こぼれ落ちるものをひとつひとつすくいあげていく作業はとても地味だけれど。
声なき声が最初にあった。
何が起きているのか、何がおかしいのか、わたしの気分をおかしくするのは何なのか。
不快感とすら認識できないあれこれに、言葉をひとつひとつ作っていくこと。


おかしいことをおかしいというのもとても大切なことだけれど、何がおかしいのか感じ取るのはいつだって弱々しい人だ。世の中に適合できず、迎合できず、もたもたとしてうまく生活できない人。……。



いや、違う、書いていて違うと思った。
わたしには確信なんてない。
違うんだよ、強い人だとか弱い人だとかそういうことじゃない。
どんな人でもどんなことでも起こりうる可能性がある。

強い人、弱い人、そんな区別なんてそもそもない。
注目される社会活動だって、ただ、言葉を紡いで来た人の蓄積があるから、その言葉を使って人の心を動かせるのだろう、と直感で思っただけだ。


昔読んだ本で、ウーマンリブのチラシをひたすら持っていた人がいて、それが歴史的な資料になったという話だった。それだって、社会運動だ。


何が社会運動で、何がそうじゃないのか、わたしには区別できない。
いや、区別してはいけないのだ。



みんなと一緒に笑えない。
隠している過去がある。自分自身直視できない過去がある。自分自身からは逃れられないから、生きていること自体が戦いだ。
そんなわたしや、わたし以外の人々の、笑えないで食いしばる口から出るうめき声よ、いつか届けと。