c71の一日

生活の記録

強いから鈍いけれど、教育について考える

わたしには強い部分がある。そこがわたしの弱みだ。

わたしは教育を受けた水準が高い。その意味では強者だ。
知的レベルで言ったら強い。弱い人のことがわからない。
わたしはその部分に関して、「弱い」立場の人への想像力が欠けている。端的に行って鈍い。
わたしが受けた教育は最高水準のもので、自分でも努力したと思うが、環境が良かった部分が大きい。
参考書を買うお金ももらえなかったし塾にも行けなかったけれど、勉強したからと言って殴られなかったし、勉強をすることは良いこと、という価値観の人々に囲まれて育てられた。勉強をして足を引っ張られることもなく、勉強をしている間は放っておいてもらえたので、モチベーションは高かった。図書館が居場所だったのでたくさんの本を読んで、世界は広いらしいと知った。
学校に行かない間も、図書館は、特にわたしを排除しなかった。
わたしは大人用の棚の本も読んで、今自分が勉強しているのは本の入り口らしいとわかった。

そして、大人の本も理解できた。
いろいろな疑問がわいた。それを知るために、次々と専門書を読んだ。参考文献を追っていくと、いろいろなことがわかった。
世界の扉が開いた。
学校の勉強は興味の持てなかった分野について学ぶ機会をくれた。
もちろん、退屈なものもあったけれど。

だから、わたしは勉強をすることに迷いがなかった。点数が低いときも気にしなかった。世界を広く知るために勉強しているのだからとわかっていたから、他人への競争には興味がなかった。わたしはとてもマイペースで、だから、他人の競争で苦しんでいる人への想像力はなく、ただ、「やめれば良いじゃん?」と思っていた。


大学にはどうしても行きたかった。専門的に研究している人に、わたしが長年持っていた疑問を直接ぶつけられる機会だ。わたしはあらゆる機会で質問し、同窓生に疎まれたが、気にしなかった。関係のない学会にも出向いて、疑問に思えば質問した。
知らない分野を知るためには、パンフレットと、専門書を同時に読むのが良いことを知っているのも、独学を続けたせいだ。
全体を把握して、単語を理解したら、論理的なものは必ず読める。
わたしは読書に関しては才能がある。パターンが読める。言い換えが理解できる。


だから、わたしはそれが出来ない人への想像力もいたわりの思いも少ない。



わたしは勉強をすると良いことがあると、知らない人、モチベーションがない層への理解がない。


わたしは大学に行くと良い就職ができると思って大学に行ったわけじゃなかった。わたしの人生は大学に行くところで止まるのだと思っていた。そのさきはなにも考えていなかった。(出来たら死にたかった)


だから、大学に行くと何か、良いことがあるの?と言われても、「質問が出来る」としか言えない。だけど、そもそも「質問が思いつかない」という抑圧されている人もたくさんいるのを知っている。生徒さんにもいる。そういう人には、質問して良いのだ、と気持ちをほぐすところから始めなくてはならない。だけど、そんな環境にたどり着くためにはそもそもお金がいるのだと言うことも、わたしにはわかっている。

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わたしの住んでいるところは、地域全体で、教育をバックアップしているところで、無料の塾を開いている地域もある。
だから、貧富の差に関係なく、勉強をする。
働いたあとも、再チャレンジ制度があるから、社会人経験があれば(別にニートでも良い)大学に無料で入れる。



わたしはそういう強い地域にいたから、そうじゃない地域に対する想像力が少ない。



勉強をすると、ある人の言い方を借りると「身の程を知る」ことができる。
できないことを理解できるようになる。
それは、残酷なことでもあるけれど、楽にすることでもある。
無理な努力をしなくて住むようになるから。


得意なことが、もちろん、世の中の要請していることに当てはまっているとは限らない。
そもそも、得意なことがない人もいるだろう。
そうしたら、単に苦手なことがあるだけで、おかねになる能力が全くないひと、ということが、理解できるだけになる。
でも、それは、悪いことではないと思う。


わたしは想像力がないから、続けて書くけれども、頭が悪くても「順を追って、論理的に考える技法」というのは学べるものだと思っている。
若い頃は、場当たり的に、網羅するように考えた。今は、少なく的を絞って考えることができる。正解にたどり着くまでに手数が少ない。
頭脳は衰えた。それは自分が良く知っている。だけど、若い人に教えることができているのは、大学で学んだ思考の技法を知っているからだ。




能力のなさを知ることで、それを埋めること、補うことができるようになる。
それは必ずしも苦痛を感じる過程とは限らない。
教育にはそういう力があると信じている。


極端に頭が悪い人というのは、わたしには想像がつかないけれど、貧困や、周りの環境から引き離されたら、自分の位置や能力を把握して、それを埋めたり、出来ることを伸ばしたりする手だてが見つかる人が増えるはずだ。わたしはそれが教育の機能だと思っている。

わたしは教育を受ける機会を持ったと言う点で強者だ。強い。だから、鈍い。
簡単にそうはいかないよ、と思う人もいると思う。
教育は必ず序列をつけるものだ、という考えを減らしたい。
勉強は自分のためにするものだ。
世界の広さを知るためには、自分が断っている場所がどの座標か知らなくては、地図を見ることも出来ない。
わたしはそう思っている。
傲慢かもしれない。
わたしが救えるのは、一部の金持ちの子どもだけだ。だけど、誰も救わないよりもずっと良いと思って教えている。
指針を探す力を身につけてほしいと思っている。


本当は学校教育がそれをするのが一番良い。でも、そうじゃない。
だが、そういうことを始めた市町村もある。わたしは絶望できない。
日本は衰退していくだろう。
これほどひどい差別のある国では、能力を発揮できない人々がたくさんいる。
それは効率の悪いことだ。
だから、それは仕方がないと思っている。
子どもが少ないままでも仕方がないと思っている。
でも、今存在していて、未来に大人になる人たちには、同じ思いを味わってほしくない。
それは、効率のためじゃない。生きていることに絶望してほしくないから。
だから、教育は大事だ。
苦しみの中から、何かを見つけ出すために使える道具だからだ。

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