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c71の一日

生活の記録

無謬の被害者になれとあなたがたは言うが

わたしは純粋な被害者になったことが何度かある。
そのうちのひとつは夜道を歩いていたら、つけられて首を絞められて、左腕の神経を切断されたときのことだ。
暗がりに連れ込まれそうになり、顔を殴られた。


わたしは知っている。
なぜ、夜道を歩いたのか。後ろに気をつけなかったのか。人気のない道を歩いたのが悪いと、言う人がいることを知っている。
警察の人も、警視庁の人も親切だった。わたしは手紙を書き、仕事を失ったことを書いた。それは裁判の上で効果があった。
だけど、わたしの生活は元には戻らなかった。


パニック発作が起きて、広場がダメになった。同じ条件の気象条件、暗い場所、雨の日になると、呼吸が早くなり、周りが見えなくなり、歩けなくなる。パニックで死んでしまいそうになる。不安発作、鬱病、不眠症。PTSDだ。



男だったら、強盗に遭っても、落ち度が言われることはないだろう。でも、わたしの身の回りの人がたとえ親切でも、こうしてひとたびネットに書けば「わたしのほうがいつも注意深く生きている」「それがあたりまえ」「夜道を歩くのが悪い」「予防するための考えを言って上げているのに」という声がわたしに届く。
予防するための考えが届いたところで、わたしのPTSDは治らないのだが。
それでも「なにかしてあげたい」人の欲にはきりがない。被害者に従順であってほしいという願いを浴びて、被害者は被害について語らなくなる。



差別においても、同じだ。差別の被害者でいるときに、無謬でいることはいっそう難しい。
差別の中で生活するためには、差別を逆手に取る場面もでる。
絡め取れているからだ。そうすると、被害者が被害を語ることがとても難しくなる。


そうすると「差別と言うが。それで良い目を見た部分もあるくせに」という人はやはりでるし、「そのことをいうなら、こちらのことも言わないと手落ちだ」「こちらに配慮がない」という言葉がやはり届く。
差別の被害者は、強盗の被害者と、とくに変わりがないと思うが、差別という抽象的なことになると、人はわからなくなってしまうようだ。強盗に遭った人にかけては行けない言葉があることがわかる人でも、差別になるとわからなくなる。

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男だってたいへんなんだろう。それはそうなんだろう。想像できる。
くだらない権力争いや、嫉妬、いじめ、セクハラがたくさん起きていそうだ。

しかし、そうしたら、男の自分が書けば良い。わたしには書けない。知らないからだ。
わたしに配慮せよ、というよりも、よっぽど、効率が良い。
知っている人が書けば良い。少しずつ、みんなが書いていけば、世の中も良くなるだろう。


差別があった、と書くだけで、人は「この人には、要求しても良い」と思うらしい。
説教をしたり、少数者に配慮せよ、と言ったりするのなら、自分自身が行動するか、黙るかすれば良いのに。
そういうと、何も言えなくなってしまう、と言われるのだろうか、また。
そういう反応をいちいち考えること自体が、負担だ。


誰かが被害者になったことがある、と告白し始めたと同時に、その人を裁く人が現れる。
その人に対して、自分の方が優位に立つと考えるようだ。
被害に遭わない、ということは、自分の方が、まじめに生きている証拠だ、と感じているように見える。
だから、不真面目な人に対して、何か言う資格があるのだと勘違いしているように見える。
被害者を裁くことも、点を付けることも、こうすればよかったのに、ということも、こういう風に考えてとらえ直せば良いと言うことも、ポジティブになれ、という人も、全部いなくなれば良い。
そういう人たちは、被害者から、生きる意味を取り上げる。
生きる意味は、悲しみや苦しみをきちんと味わうところから産まれるのだから、それを剥奪する行為は、その人を死なせることと同じだ。
そして忠告や説教は、悲しみや怒り、苦しみをその人から剥奪する。
そのことに対して、無感覚な人がいることがわかった。



無謬の被害者なんていない。それを求めるのは、暴力だ。落ち度のなさを求めたらきりがないのだから。


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