読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

c71の一日

生活の記録

常識のもつ傲慢さを語り始めると

わたしが語り始めるとき、当然、わたしは、わたしの考えや体験を話す。


思うのだが、筆者が男性である場合と、女性である場合で、読者の反応が異なる。
男性が「男性とはこういうものだ」と書くときと、わたしが「男性とはこのような構造にあるため、このようなことをする」と書くときとで、男性側の反応がちがようだ。



男性は、育てられた環境の中の常識に従って生きている。
その常識は、わたしを抑圧する。
だから、わたしはその常識に反したことを言う。
常識から反したことを言う人間は少数派だ。
だから、わたしの意見は世間では少数派だと思うが、男性から見ると、「自分が少数派である」と思うようだ。
それは、わたしから言わせれば、あまりにも反論されたことがないために、自分の立ち位置や身の程をわかっていないのだろう、ということになる。
自分がマジョリティすぎて、自分の言うことがどれだけ人を裁いて来たのか、抑圧して来たのか、わからないのだ。
だから、それに異を唱えられると、アイデンティティが揺らいでしまうのだろう。
男性は、自分自身が男性だ、ということに、アイデンティティの重きを置いているように見える。だから、それが揺らぐと困るのだろう。
わたしは、わたし、自分は自分、という境地に達するほど、鍛えられていないのだ。


だから、わたしの意見に対して、もっと少数派に配慮せよ、という人は多い。
そうすると、わたしの文章に関するハードルは上がる。その負担に対して、要求者は無頓着のようだ。
自分の弱さを、自分で克服するのではなくて、弱さを告発するわたしに、黙れと言うことになる。
少なくとも、わたしはそう感じる。
男性である、その属性を持っていることについて、その属性を攻撃されると、自分の気持ちが揺らぐ、という流れの責任をわたしに求めるのは間違っている。
だが、それをする人はいる。そうでない人もいる。
(わざわざこう書くのは皮肉だ。そうでない人もいる、と書かないと、自分は違うと言う人が現れるから。なんと滑稽なことだろう!)


わたしは抑圧されている。だから、文章を書いている。
だが、告発される側の立場の人は、自分がその属性だと「それを書いてくれるな」と思うらしい。思うだけでなく、わたしに「少数派の自分はそうじゃない。そうじゃない自分のことにも配慮して書いてほしい」と言ってくる。
わたしの考えだと、わたしに言うのではなく、自分の文章を書くところを作って、そこで「少数派の男である自分」の文章を書くと良いと思う。


わたしは知見を広げたいから書いているのではなく、抑圧をとり、自分を整理して、幸せになりたいから書いている。



たとえば、わたしは人の言葉を盗んでブログを書いているのではないかと心配している。
わたしはときどき、読んだことを自分で考えたことだと思って書いてしまうときがある。それには悪気がなく、無意識だ。
教えられてから気をつけるようにしているけれど、なにせ、無意識だから、してしまっていることがないとは言い切れない。
そういうことには、その人が自分の権利だから、言ってくれるとありがたい。直せるから。



上記の方は、ある文章を通して、意味が通らないのですが、どう読めば良いのですかと聞いてくれた。だから、わたしは書き間違えてくれたことに気づけた。そういう教わり方は、とても感謝して受け取れる。



抑圧されている側が、自分の中の常識を見るとき、その常識自体が、自分自身を抑圧していることは良くある。わたしはそれを解き放ちたくて書いている。
だから、わたしの常識ではこうです、ということを、さして他人に教えてほしいと思いながら書いていない。
その常識が、わたしを抑圧するものだ、ということもよくあるから。


わたしが男性の筆者だったら、同じように言われるだろうか?と思うと、そんなことはないと思う。

かといって、抑圧されているから、自由に、免罪符のように何を書いても良いとは思っていない。
だから、正当な理由なく、誰かをバカにすることは、書こうとは思ってない。
「こういう行動をする人はこういう理由でバカだ」ということは良く書くけれども。

広告


こんな小さなブログでも、抑圧から逃れようと努力していると、抑圧されよと追いかけてくる人がいる。
それはすごいことだ。
常識からはみ出ることは許さないという掟を、こんなところでも見かけるとは。


わたしが身の程を知る、ということをいうとき「女だからあきらめろ」「男だからあきらめよ」というつもりで書いていない。
ただ、その人が「強い」立場にいることを理解してほしい、ということだ。もしくは、不当に「弱い」立場にいることを理解して、自分を不当に貶めないでほしいと言うことだ。
能力の違いではなく、立場や属性の違いで、評価のされ方が違う、ということがわかれば、自分に対して冷静になれる。
自分を正確に知る、という技術が必要だ。


属性によって底上げされ、その人の実力じゃない部分まで高く評価されているとき、そのことにおごり、当たり前だと思うこと、そのこと自体に疑念の思いをもつことを望むということだ。
男だから、社会的評価を底上げされている、ということはとても良くある。女の人は出世できない。ほとんど。
そのことを当たり前だと思っている男性は多い。そして、男性は女性が犠牲になることで、良いポジションに行く確率が高くなる。
そのことに無自覚なまま。それを、わたしは身の程を知らないまま、底上げされていると表現する。
本来、より優秀な人がつくはずだったポジションに、男性だからつく人がいるということは、社会にとって損失が大きい。


人によっては、女性には出産などの機会があるから、からだの自然から、女性が出世しないのは当たり前だ、という。
しかし、社会が存続するためには、女性の出産と言うのは、女性が個人的に負担することじゃなく、社会が当然組み入れて設計すべきことだ。出産する分、女性が男性よりも能力が高くないと評価されない、というのはおかしい。人類の半分が女性なのだから、就職時点のときに「彼氏はいるの?結婚したらどうするの?」と聞く風潮が未だあるのは野蛮だ。


人類の半分の生理を無視して、社会設計がなされている、という事実は端的に言って、狂っている。
そして、その責が女性に負わされているのも、男性が優れている根拠になるのもおかしい。
効率が悪い。
大卒の女性がどれだけ仕事をあきらめ、単純作業に落ち着くのか考えると、効率の悪さがわかってもらえると思う。
女性たちは、それを選ばざるを得ない。
働き続けることを選んでも、自己責任だと言われる。男性は、そもそもパートタイム労働や単純労働や低賃金を選択しなくて良い。だから、他のことで葛藤があっても、女性のようなキャリアパスの葛藤は経験しなくてすむ。
それが男性の「常識」だ。その常識は傲慢だ。
そして、その常識は、わたしの心を傷つける。だから、わたしはその常識に対して異を唱える。

広告を非表示にする