c71の一日

生活の記録

子どもの頃とは違うから、傷つけられる前に逃げる

子どもの頃、自分が幸せか、不幸せか、考えることができなかった。
「あんたは幸せだよ」と言われて鵜呑みにしていた。
だけど、心は嘘をつけないから、からだの具合が悪かった。
「からだが弱いから心配」と言って、干渉はひどくなり、どんどん悪化していた。
わたしには夢があった。家庭の事情でできなかった。
そして、その家庭の事情の原因の人が、わたしと同じ夢を叶えようとしていたので、わたしは泣いた。
そうしたら、泣いたことで、人を傷つけたと責められた。家庭の事情の原因となった人に。


わたしは、家庭の事情になった人を責めたことがない。
だけど、家庭の事情はわたしを責める。
「あなたのためを思って」という。
「言ってくれる人がいるうちが花よ」という。



子どもの頃、わたしは今より他人の幸せを願っているあまり、自分の幸せを押し殺した。
押し殺しているうちに、なぜ、生きているのかわからなくなった。


わたしは逃げ出した。
逃げ出してからも、「自分の意思で逃げなかったんでしょ」とか「今は大人なんだから、自分の人生なんだから、(過去のことにこだわっても仕方がない)」と過去の原因の人に言われたときも、正論だなと思って飲み込んだ。
飲み込んだけれども、


ああ、そういえば、わたしはわたしの為に生きていたんだな、と思った。
わたしが人前であくびをしても、お尻をかいても、背中が出ていても、わたしの価値は損なわれない。
直した方が良いかもしれないけれど、あうたびに言ってくる人にあう必要はなかった。
友だちに教えてもらえば良かった。常識チェッカーになってくれる友だちはたくさんいるのだ。
わたしは友だちを大切にすることができているのか、自信がなく、いつも、自分勝手に振り回しているだけなんじゃないかと思ってしょんぼりするのだけど、でも、友だちはいる。
そして、友だちは家族と違って、わたしが選んだ人たちで、一緒にいると幸せになるし、一緒にいなくても幸せになる。
家族は一緒にいても一緒にいなくても不幸になる。子どもの頃は家族からは慣れられなかった。
生きられなかった。
だけど、今は大人だから、大丈夫。



ずっと一人だった。なんとかやってきた。
入院したときも、死にかけたときも、一人だった。
一人のわけはない、助けてくれた人がいると言うのなら、その通り。そして、それはいつも家族ではなかった。



誰かのせいで、幸せになれない、と嘆く人のそばを離れよう。
その人は「わたし」がいることで「幸せに」なれないと思っているのかもしれないから。
わたしが何もしていなくても、存在するだけで、その人は幸せになれないと「思っている」のだから、わたしは離れるのが親切だし、離れてほしいと言われているのだから。


きっと誰でも「人のせいにして、その人のせいで幸せになれないだなんて、思っていない」と否定するんだと思うのだけど、行動はそうじゃない人って、たくさんいる。


わたしは人が言っている言葉をそのまま信じることが多いのだけど、言っている言葉よりも行動の方が雄弁だ。
言っていることと、していることが違っていたら、事実を認めよう。
行動の取っている意味、文脈を見れば、素直に推理すれば、他人の価値観もわかる。
言葉にだまされないようにしよう。言っている本人もだまされている願望に、こちらも巻き込まれないで、ただ、事実を見よう。


そうすることで、身を守れる。わたしはこれ以上傷つかない。