c71の一日

生活の記録

恐ろしい獣はもういないの

恐ろしい人は恐ろしい姿をしているとは限らない。でも、恐ろしいことはきちんとして去っていく。

わたしのむき出しになった内蔵めがけてやって来て、一番栄養のあるところを食べていなくなる。
彼らはむき出しの内蔵を晒して生きている人間を捜すのがとてもうまい。
嗅覚が発達しているのだ。
内蔵を晒さざるを得なかった人に悪いところはひとつもない。
見つかることを「誘っているからだ」と言う人がいるが、誤りだ。

彼らは、獣だから、獲物を見つけるために生きているのだ。
彼らも生きるために、そうしているのだから、そう言う能力がある。
それに狙われるのは、その人が悪いからじゃない。
内蔵を晒したまま生きていることに気づけないように、環境があったから、しかたがない。


恐ろしい獣に内蔵を食われていることに気づかないで、でも恐れていて、という二重に辛いこともたくさんある。
痛いのに、何をされているのか、わかっていない。


わたしは恐ろしい獣がたくさんいることに気づいた。
そして、内蔵をしっかりからだの中にしまおうと思った。
しまうのは簡単だ。
内蔵が飛び出ていることに気づいたら、片付けるだけだ。
内蔵が飛び出るような出来事が続いていたから、飛び出ていただけで、好きで飛び出させていたわけじゃないから、自分を責めることすらない。
責める必要なんてある?自分がつらいだけで人に迷惑かけているわけじゃないんだから。
飛び出ていたものは仕方がない。
だいたいのことは仕方がない。
でも、気がついたときに、飛び出ていた内蔵はしまった方が良い。
獣はいつでもうろついている。


恐ろしい獣たちは、優しい言葉や、無理に自己開示をして、境界にばりばり押し入って来たり、穏やかな態度をしていたり、傷ついた姿をしていたり、守りたくなったりする形をしている。
そうして、心のスペースを奪っていく。


わたしの話をしていたはずが、自分の話になって、「あなたはまだそんなに苦労していない」と言うことを告げたり、「自分の方がたいへん」と言ったりして、わたしの気持ちを無視する。
「あなたのためを思っていっているのよ」と言ったり「あなたの友だちは良くない」と言ったり、「イエスマンだけまわりにおいたら悪い方向に行くよ」と悪い予言をする。


わたしの心はむき出しだったので、その言葉がぐさぐさ刺さった。そして、その言葉を受け入れないといけないと、必死になって受け入れようとしたり、逆に拒絶するために一生懸命になることで、疲れ果てていた。



頭の中の呪いが解けて、その人たちは自分の考えの中でしか話していないことがわかって来た。
だから、真に受けないで、そういう言葉があった、ってことを一度ためておく余裕ができた。
怖い言葉を一度、棚にしまって、体調の良いときに取り出して、触ったり、眺めたり、分析したりしてから、必要だったら取り入れて、そうじゃなければ、捨ててしまう。なんなら、そのまま忘れてしまっても良い。



お前は恐ろしい獣になるに違いない、お前のせいで傷ついた、お前がケアしないせいで、俺は死ぬ、という言葉を投げかけられていたから、わたしは人を傷つけることや、自分が恐ろしい存在になることが怖かった。
だから、自信がなかった。自分が人間かどうかについて、自信がなかった。
不完全な人間だから、恐ろしい獣になって、人を食い殺すんじゃないかと心配だった。


人の心がわかっていない、非情、と言われて育ったから、わたしは人に優しくないのだろうと思って、気をつけるようになった。
だから、疲れやすかった。

あなたはこんなこともできないのね、と言われていたので、わたしはこんなこともできないんだ、と思った。



でも、そうじゃない。
人は、それぞれできないことがある。そして、それで良い。
できないことがあったからといって、恐ろしい獣になるわけじゃない。
できないことを責める人が、恐ろしい獣なのだ。人の弱みを食い物にして、自分の自尊心や優位性を守る獣なのだ。



わたしは長いこと、自分の内蔵をむき出しのまま晒していた。
しまう方法を教えてもらっていなかったり、しまった方が良いよ、と言われなかったり、むしろ、むき出しのままでいた方が正直で人に好かれるんだよと教え込まれていた気がする。


わたしは大人になって、だけど、あなたはここが悪い、と言われて、あなたを良くするために言うのよ、と言う人がいて、そうかあ、わたしはだめなんだな、とすっかり鵜呑みにしていた。でも、そうじゃないんだね。


弱いことや出来ないことがあるのは、悪じゃない。悪だとしても、それで良い。
人間は全体として良い感じだったら、それで良い。全体として良ければ、弱いところを補い合って、助け合って生きていければ大丈夫。
人の内蔵にずかずか踏み入って、お前の内蔵は良くないって言うよりも、相手の意思を尊重して、できないことを助けて、出来ることをしていった方が、人間らしいんだ。弱いことは悪いことじゃない。
悪いことは、人のことを尊重できないことが悪いこと。人の領域に踏み入ってしまうことが悪いこと。
それをしなかったら、だいたいまともな人間だ。


自己表現するときには、綺麗な包装紙で包んで、相手が受け取りやすくする。
むき出しの自己表現は相手を驚かせてしまう。
だけど、それだって、悪いことってわけじゃない。少しずつ学べるようなことだ。



わたしはいろいろな人に聞いたのだけど、わたしは人間関係をけっこううまく築けているっぽい。
依存もしておらず、適切な距離で、大人の対応をしながら、交友関係を広げている。
ブログを通して、友だちになった人もたくさんいる。みんな親切で優しい。
わたしの苦手なことを受け入れて、できることを褒めてくれる。
居心地が良い人間関係だ。わたしも、相手の人のことを好きだし、褒める。情報交換もする。


ときどきは、友だちに会いに遠いところまで出かけていく。そうすると、不思議なことに、自分の住んでいるところから距離が離れただけで、自分を発見し直せているような気がする。
わたしは恐ろしい人じゃない、と友だちに言われて、本当にほっとした。
わたしが、人に対して、されたことで、悔しく思ったり、怒ったりすることも、当たり前だし、ほんのちょっとなら、やり返しても良いんじゃないの?と言われた。


そうか、と思った。

わたしは無理に優しくあったり、正直でいたりしないと許してもらえないんだと思っていた。
だから、内蔵を獣たちに食われていた。


だけど、わたしは内蔵をきちんと体内に納めることにした。
だから、恐ろしい獣はもう来ない。
わたし自身も恐ろしい獣にならない。
だから、もう、恐ろしい獣はいないの。


ここにいるのは優しい人間たちだけなの。



このエントリを読んで、わたしも逃げられるようになって来たなと思った。
わたしはあなたを救えない、と思うこと、理解することは、自分や、他人を守る上でとても大事なことだ。t.co

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