c71の一日

生活の記録

愛されていたり、愛されていなかったり

今朝、友だちとチャットしていた。
そして、ふと、「あれ、わたし誰にも愛されていないな?」と気がついて、すっきりした。
ああ、わたし、愛されてたことないんだ。

通りすがりの人に親切にされたり、愛されたりして、それで、生きていられたのかな?


昼頃、キングスマンを観た。マシュー監督の作品が好きで、ポップなアクションに興奮した。
そして、整体に行って、おしゃべりした。
そういえば、お父さんには愛されていたかも。


お父さんとわたしはあまり状況が良くなくて、一緒にいられる時間があまりなかった。
お父さんはわたしがののしっても、何をしても、いつも、受け止めてくれた。
わたしがおかあさんから逃げ出すときに、その意思を尊重して、手助けしてくれたのもお父さんだ。
わたしが死にそうに困ったときも、精神科にかかったときも、お父さんは助けてくれた。
そして、お父さんは、整体の人に会ったとき、「c71をお願いします」と頭を下げたそうだ(別に変な意味じゃなく)。
その話を整体の人がした。それで、あれ、お父さんには愛されていたのか、と思った。



お父さんは、最後に会ったとき、まだ生きてるけど「とにかくあなたの幸せを願っています」と律儀な口調で言ったのだった。
それで、そのあと、わたしは、自己評価も自己肯定感も低いし、感情とか、内蔵とか外側に出したままなのに、ゾンビみたいな状態でも生きてたんだなと思ったのだった。


愛されたいともやもや思っていた。
だから、試行錯誤していた。
でも、わたしを愛していたのは誰か、愛していなかったのは誰か、というのが、すこんと腑に落ちた。
そういうのは、行動からわかるのだった。
わかることをわかりたくなかった。
でも、わかってみたら、たいしたことがなかった。
わかる前は愛に媚びていた。
愛はわたしがどうしていたって、あったりなかったりする。
子ども時代のことはどうしようもない。


過ぎてしまったことはどうしようもないと他人に言われたり、おかあさんは本当は愛しているのよ、本心じゃないのよ、と言われたりするのもどちらもいやだった。
どちらもわたしの手に余った。
だけど、別に、誰かに必死になって、わたしがいかに愛されていないか証明する必要はなくなったのだと思った。
わたしが腑に落ちていたら、それで良いのだった。
お父さんには愛があった。おかあさんには愛がなかった。
その他の人はときどき、愛してくれたり、愛してくれなかったりした。
雨が降ったら水を吸うみたいな感じで、育ったのだと思った。
晴れたり雨が降ったりだ。
わたしは今お金で買えるものだけが欲しい。
気持ちがさっぱりした感じがする。