c71の一日

生活の記録

需要と供給の曲線が交わるところ

ブログでお金を稼ぐことに反対な人たちがいる。


反対というか、露骨に稼ぐなと。


自分の時間を売る時、その値段の根拠は、と問う人もいた。


例えばわたしが時間を売るとき、自分が生活できる値段や、諸経費をのせて値段つける。


だけど、何よりも大事なのは需要と供給が交わったところの値段をつけることだ。



サラリーマンは、自分の給料の値段の根拠に興味はないんだろうか。


死なないで暮らせるくらい、儲かる会社に勤めてるから高給とか、そんな感じでみんな適当に決められていて、それが当たり前だと思ってるだけだろう。


自分が値段をつけるには勇気がいる。


相場も適当に決まってるものだ。


自分のサービスにどれだけの価値があるのか、そんな自信なんてない。


安すぎると困った人も来るし、百万円をつけたら売れない。そんななかでちょうどいい値段を探す。


わたしはアウトサイダーだから、スマートなお金稼ぎはできない。

掛け持ちしてやっと暮らしている。


お金がないのは選択肢がないということだ。
選択肢がある人から見るとおろかなふるまいに見えたり、頭が悪いと思ったりする事象は教育水準や判断力や選択肢を奪われていて、そういう発想がないからだ。


わたしは病気だから家から出られない人生や贅沢をできない人生もあり得た。



お金なんて下らないというひともいるだろうが、今のわたしは贅沢は気分が上がって楽しいし、それが楽しいうちはなるべく稼ぎたい。


休み時間を減らして週七で働くことはきついけど、稼いでお金を使うと、人生で奪われたなにかを掬い上げる作業な気がする。


最初から奪われず満たされた人にはわからないのかもしれない。


ひりつくように、お金を稼ぎたいという執念や、フリーランスの貪欲さや、お金のない怖さ。


ゲームのように、お金を稼ぐ楽しさはフリーランス特有だ。決まった額が毎月稼げるとは限らない。
だから、収入源はいつでも分散したい。



サービスを売るとき、ブログを経由して売ることに嫌悪感がある人は、買わないのだから、損をしない。

わたしが不思議なのは、なぜ、ブログをやるような人なのに、他人に興味があるかだ。

他人に興味があるから、余計なことを言うんだろう。


わたしは以前他人に興味があるからブログをやるんだろうと勘違いされたが、その感覚は全くわからない。


他人にエネルギーを割くよりは、自分や友達にエネルギーを割きたい。だからくさす人の動機がわからない。


お金は自由を保証する共通幻想だ。それを利用して何が悪い。



需要と供給の交わるところで、折り合えばお金が発生する。
根拠なんてない。お互いの二人のなかで納得するかだけだ。