c71の一日

生活の記録

あなたには価値がある

フランシラの泥パックを買った。高い買い物だったのでウサギちゃんに言ったら「自分で満足したらそれがいい買い物で誰が何といってもいいんだよ」と言ってくれた。そうかあと思った。いい匂いがするし、安らぐし、肌が柔らかくなるような気がする。
それに泥遊びをするのは楽しい。
楽しいだけがすべてだ。


誰が何といっても、わたしがいいと思えば価値がある。
わたしがいらないと思えばどんなにいいものでも価値がない。



fuyu.hatenablog.com
わたしはこのエントリに反対で、恋の駆け引きはそんなに大事じゃないと思う。あと、たぶん筆者が男性だから、女体に価値を見出しているのだと思う。わたしからしたら、女体はたんなる女体だから、とりわけ価値があるとは思えない。
ただ、コマーシャル的に、価値のあるからだというのは存在すると思う。
商品だから磨くのだろうし、磨かれていくだろう。わたしのからだはコマーシャルじゃないから磨かれていない。


情緒的な質感が失われるとしたら、それは、自分の意思をどう伝えるかが変わるだけであって、暗黙の了解、見えないダンスのステップが変わるだけだと思う。
イエスの意味はイエス、っていうのは素晴らしい。そうでなければ、わたしは嫌だ。


わたしが嫌だと思っているのに「本当はうれしいんだろう」と言ってくる人がいて、わたしの気持ちを捻じ曲げてしまう。わたしは魔法にかかってしまって、「本当は違うのかな」と思ってしまう。その場の雰囲気に飲み込まれてしまうのだ。あとから、盗みを働かれたような嫌な気持ちになる。


わたしは比較的簡単にセックスする。自分の「女体」の部分に「お金」の価値があると思っていない。出し惜しみもしない。
男が、どう思おうと関係がない。わたしは、わたし。わたしがわたしに評価を下す。他人の評価はいらない。
わたしは自分の体を使って生きている。
だから、そこに対して、金銭的な価値は、つかない。
わたしはコマーシャルセックスをしていないから。
もし、コマーシャルセックスをするのなら、価値をつけるけれど、それは、「女だから」価値があるんじゃなくて、需要と供給があるからだ。
男のセックスにだって需要はあるのだけど、男たちはあまり盛んには供給しない。お金の対価としてのセックスは。


わたしはロマンチックなセックスも好きだし、性欲を満たすためのがつがつしたセックスも好きだ。
コマーシャルセックスと、ロマンチックセックス、セクシャルセックス(こういう用語はないけど)の三つはそれぞれ独立ってわけじゃなくて、まじりあい重なり合う部分もあるのだと思う。
体を持っているのだから、体で楽しめる楽しみはいろいろと享受していたい。
せっかく、生きているから、生きているうちにできることはできるだけしていたい。


モラルがわたしに特に何もしてくれず、悲しいジャッジだけを繰り返すから、仲良くすることをあきらめる分野があるとしたら、セクシャリティの部分だ。それと、自分を尊重するための気持ち。


処女が最も価値があり、そうでなければ少しずつ傷がついていく、という価値観には反対だ。
生きている人間は少しずつ治らない傷を負っていく。傷を負うことを怖がっていたら、何にも戦わずに死んでしまう。
自分が自分らしく生きていくためには冒険が必要だ。性的な冒険もわたしには必要だ。だって、コミュニケーションの一部だから、試す価値があるもの。
人と人の関係があるから。興味深いし面白い。生きている人間に「傷」があるから、価値が減るという考え方は尊厳を損なうと思うし、屈辱的なものだ。



わたしには普遍的な価値がある。そして、自由があって、自分の意思で、状況が許す限り好きなように生きる。


というのは最も大切なスタンスだ。セックスを比較的簡単にするというのは、わたしがいいと思って、相手がいいと思ったら、する、という意味だ。
それだけだ。簡単だ。シンプル。シンプルなのはいい。



わたしは自分に価値があると思っている。
それは誰にも侵害できない。わたしがわたしに納得していることだから、誰もどんなことを言っても、否定できないのだ。
これは誇らかに常にいえる時には精いっぱい言いたい。
わたしにそういってくれる人もいるので、心が揺れる時には勇気づけられた。だから、わたしも言いたい。


そして、わたしは他の人に対しても、声を大にして、常に、価値があるんだと言いたい。



生きていることは素晴らしい。それは、いずれ死ぬからだ。
いずれ死ぬと分かっているのに、細かい努力をして、命を維持して、快適さを求めるいじらしさに、惹かれる。
それは魅力である。魅力とは価値である。
だから、わたしはあなたがたに価値があると思う。


わたしは主体的にアプローチすることに腰が引けている人がいること、アプローチされると引いてしまう人のことが理解できない。
交点がないまま、まっすぐ突き進むのもまた良いと思う。
わたしはそれで全く困らない。
素晴らしいことだ。