c71の一日

生活の記録

売り物ではないんですよそれは

おっぱい募金についてまだ考えている。

わたしはおっぱい募金が嫌だ。
それは、なぜなら、恐怖を感じるからだ。
そういう社会であることが嫌だ。



t.co
性的魅力をお金に換えることに対する忌避という考え方を平然と言うのは、自分が消費者だという立場が揺らいだことがないからだろう。
それにこれは、嫌だという言葉を発する人に対する脅しだ。
自己決定権を奪うなと批判をする女たちに言うことは、ことあげすること自体が、自己決定権を奪うことになるのだという抑圧だから、結果的に批判者をひるませ、委縮させる。そういう意味で卑怯だ。
そして、いつの間にか、男社会に対する批判だったはずなのに、女対女の戦いに貶められることでもこのコメントは間違っている。


それはいいのかなあ、にとてもむかついた。
その他人事さに。温度差に。
抑圧しているのはあなたなのに、その主体の放棄した態度に。


道で歩いているだけなのに「いくら?」と聞かれたことがあったら、そして、変な断り方をしたら、どうなるのかわからないという恐怖を感じたことがあれば、こういうことは言えない。


売っていないものを売っていると言える傲慢さが、男の人の中に入る。
女の人も性サービスを買うのは知っている。でも、道を歩いているだけの子供や、道を歩いているだけの大人に、言って歩く人はまだまだ少数なんじゃないかと思う。


わたしは「売り物ではないんですよ」とは言えずに、走って逃げた、その話をしたら、ナンパでしょ?エキセントリックだねと言われた。
つまり、わたしが悪いと、周りからも保証されたのだった。
魅力的だと思われたんだ、物事はポジティブに明るく考えなきゃと言われた。
わたしの時間はそこから止まっている。
その思いをほかの人にしてもらいたくない。
おっぱい募金は、こういう風に悪気のない人たちによって支えられて、その空気は、わたしのような人を増やすだろう。
なぜなら、悪気なく、自分がもみたい、触りたいといえば、触らせてくれる人がいると信じているからだ。
聞くだけなら悪くないと思っている人がいて、いくら?と聞くことの暴力性を知らない人がたくさんいて、その事実を知らないまま、のんきに「性的サービスを売ることに忌避を感じる人がいるんだ」とびっくりもできるんだろう。

びっくりどころじゃなくて、被害を受けているのに。

おっぱい募金についてやAVについて書いたところ「不幸な体験をしたかわいそうな人」というようなコメントが付いた。
男性はAVの影響を理解していないということを書いたから。
男性は自分がどれだけ影響されているか知らないから、知らずに無意識でやっている行為に対して、女性がどれだけ合わせているかわからないんだろう。だから、影響なんて受けていないと即答できるんだろう。
わたしの体験は、それほど、珍しくない。話すべき場所でなら、被害者は話すのだ。
信頼されていない人たちには、被害は見えない。


非対称な社会の中で、公然と、性的サービスがあたかも「無償で」振りまかれて、おっぱいを触るイベントに出てお金を払うことが「善いこと」と思われる社会に生きているんだと思った。それは、とても残念だったし怖かった。
その気持ちが、女優たちを置き去りにしているとしても、そう思ったのだった。
そう思ったことを仕方がないとは言えない。セックスワークについてわたしが語れることはないと思った。

だけど、当事者が「当事者として良いと思ったから」「自己決定権を行使したから」という理由でしたことで、わたしは恐怖を覚えたし、もっというと、「女優対わたし」の構図に持ち込まれたことも嫌だった。わたしは「消費者対わたし」の感覚でいたかった。
わたしが戦いたいのは、消費者然としている男たちだ。



消費者としていられる人たちは子供のころに道を歩いているときに「いくら?」と聞かれて走って追いかけられたりしなかったんだろう。だから、それがいいものみたいに思えるんだろう。それは、おっぱい募金や、性的サービスを買うこと、消費すること、女をランク付けすること、値踏みすること、値段をつけること、そのすべてだ。


もし、本当に男女平等の世の中だったら、おっぱい募金だろうが、なんだっていいと思う。
でも、そうじゃないから。


テレビで、おっぱいを出して、もまれることを許容すると、わたしや、わたしの知っている女性たちが、被害を受ける可能性がある。
わたしは男性たちの、現実と幻想の境目を全く信じていない。


だから、「性サービス、性的魅力をコマーシャル上に置くことを忌避する」ということじゃない。そんな雑な話じゃない。自分の生きている社会が、どれだけ非対称で、それを温存したまま、それに対して対抗する言葉を発しただけで、揶揄されることをわたしは怒っているし、怖がっている。


「忌避する人がいるんだなあ」と思うようなのんきな気持ちで、他人事として、自分は決して傷つけられないところにいられる人を見ると、胸が苦しい。
それは、どれだけこの社会が非対称で、女性差別的なのか、感じないまま、平穏に生きられる人がいて、その平穏さを手放さない恩恵を見ないことにしている人が多いかよくわかるからだ。



性的サービスを、消費するための敷居を低くしてもらいたくない。
対価をいつも発生させてほしい。そして、その対価は、客から見える形であってほしい。客に、無料で人の胸を触れることがあるんだということを学習させないでほしい。



値段をつけられるときに、わたしはものになりたくない。
わたしは自分でいたい。
わたしは、値段をつけられたくない。自分が許可しているところ以外では。
それは、誰だって同じだと思う。その当たり前が通らない世界でのあれこれは危険すぎる。


おっぱい募金の逆がなりたたないのは、男性の性的価値を、女性が値段をつける立場にないからだ。
たまもみ募金があったらしいが、わたしはたまをもみたくない。
消費したくない。触りたくない。
そして、たまもみぼきんがあったとしても、非対称性は解決しない。根深い問題だからだ。

わたしは売りたくないのに、売り値をつけるのがふつうだという流れに巻き込まれたくない。
それはとても嫌だ。