c71の一日

生活の記録

わたしはわたしのためにいるの

自分でも持て余している名前のない気持ちを、粘土みたいにこねくりまわして、形を定めようとしている。
だけど、自分の気持ちの形がなかなか現れない。

人の悪意にむき出しにさらされて、人の好意を感じて、だんだん自分の中身が空っぽになっていくような気がする。人の気持ちにふらふらになった。


わたしはわたしのためにいるんだ、と思うことは難しくて、早くそういう風に思えるようになりたい。


疲れたり酷使されると思惑を忘れて自分がごみ箱になっているような気がする。ごみ箱として生きることで生きることを許されているような。


でも、そんな馬鹿な話はなくて、幸せになるために生きているんだ。


いろいろなことを考えて疲れた。


おっぱい募金も、考えれば考えるほど取り扱いが難しい問題で、何が正しいのかわからない。

今存在する人すべてに優しい解決策があればいいんだけど。


最近考えていることは、自分が生きやすくなるために考えているので、自分のこと。


誰かの存在は、存在するのだから、それを新たに「認める」なんて偉そうなことをしないで、受け止めることができたらいいな。
誰かの存在を裏切らないでいられたらいい。
すべての人の人権が認められて、あれこれ言う人がいなくなって、生きやすくなったらいいと夢見る。若い世代は、少しずつ、そうなっていると思う。


存在してもいいとか、オッケーだとか、そういういい方も絶滅すればいい。ただ、ありのままにいる、それが自然なことになれば良い。それがただ難しくて、いつも自分が間違っていると感じるのだ。