c71の一日

生活の記録

安全な依存先を増やす

依存をなくせ、というのは簡単です。依存をやめろというのは、一番簡単でいいことをしているような気がする行為です。
でも、やめられないから依存なのです。
なくせと言われたら、ますます没頭してしまいます。
なぜなら、依存の報酬としては「自己嫌悪」も含まれるからです。
人から言われて、自己嫌悪をしている間の時間も、「現実の問題」から逃避する役に立ちます。
だから、助言は、たいていの場合、依存を深めるのです。
自分自身で、切り替えるしかないのです。


言い訳をするのは、依存がなくなったら、「現実」と向かい合わないといけなくて、それをすると、「耐え難い」からです。
できない、と言いながら「自己嫌悪」をして、現実から逃げているほうが、生きやすいからそうしているのです。



依存をなくせ、という人は、たぶん、わかりやすいものに依存していないのです。
よく言われることですけど、健康な人は、依存先が多いので、一つのことに依存を集中させていないのです。


目立つ依存がある人は依存先が少ない。
そして、新しい依存先を見つけるのが下手なのだと思います。


人は一人で生きていけないとよく言います。
一人で生きようとすると、何かに強く依存しやすいのだと思います。
一人で生きていって、誰かに頼りたくない、という気持ちが、依存に結びつく場合もあるのではないかと思います。



人生にはつらいことがたくさんあります。それを「見ないことにする」とか、「紛らわす」とか、「時間をやり過ごす」には、依存するものがあると、「そのことに集中できる」ので、依存が止まらないのだと思います。


依存すると、依存先自体に快感を覚えたり、マヒを覚えたりするし、自己嫌悪をして、ぐるぐるすることで、「自分の本当の問題」に向き合わなくて済みます。だから、生き延びること自体には有効です。


でも、依存先の中には体や精神を壊すものがたくさんあります。そして、生活が、快適ではなくなります。


わたしの依存は、いくつかありますが、言いやすいところで言うと、散財と、過食です。



どちらも、それで、死ぬことはないので、どちらかというと、安全な依存です。
わたしは安全な依存を選んだので、運が良かったと思います。



嫌なことがあったりつらいことがあったりすると、過食をします。
過食をしている間は、つらいことを直接考えません。そして、過食の後の肉体的な苦しみが、精神的な苦しみを和らげてくれます。
散財も同じです。怖いようなすっとするようなスリルで、今現在の問題に向き合わなくて済みます。


依存がない時には、問題を直接考えて、向き合っていたので、今より情緒不安定で、死にたくなりました。


今は依存を介して、死にたくなります。同じようなことですが、依存を見つけたことで、多少、バランスが良くなりました。



今は、散財をしたり、過食をしたりすることで、生活に不利益が出ています。
だから、その他に、筋トレを加えました。
筋トレに依存しても、特に困ることはありません。疲れて眠りやすくなります。
過食の内容も、豆、野菜を取るようにスライドできつつあります。でも、本当に過食がひどいときには、「スナック菓子」を食べることに意義があったので、そのころのわたしに「野菜を食べておなかを満たしなよ」と言っても無駄です。精神的な問題だからです。
自己破壊衝動だからです。



嫌なこと、つらいことに直面すると、死んでしまうから、死にたいけど死にたくないから、過食をしています。
時間がまぎれるからです。


人と話をすることも過食を避けるのに良いです。でも、話し相手になってくれる人はなかなかいません。みんな忙しいからです。
でも、ブログを通して知り合った人と愚痴を言うことも増えたし、今までの友達にも、自分の問題をカミングアウトするようになりました。
そして、相手も自分の問題をカミングアウトしてくれることも増えました。
だから自助的に、愚痴を言い合うことができるようになりました。


自分の恥を言うのはつらい事です。でも、人を選ぶ必要はもちろんあっても、自分の恥を人に言えたら、支えあうことが可能だと感じます。



愚痴を言うのは無駄だと考える人もいると思います。非生産的だからです。
でも、苦しいことは勝手にやってきます。苦しいことは非生産的です。非生産的なことには、非生産で立ち向かわないといけません。



おしゃべりは、そういうことのためにあるんだなと思います。



散財についても、友達に相談しました。
今日もそのことについて話しました。
わたしは思い詰めていたようです。散財をすることのスリルと罪悪感で、より、現実がつらくなり、そして、散財行為に向かっていたんだなと思いました。



スクワットを一日200から300回やるのも、一か月続けられました。
スクワットをすると気持ちが落ち着きます。それができるんだから、貯金もいつかできるって言ってもらえました。



依存する人は快楽に弱いのではなくて、自罰的なのだと思います。
だから、受け入れられることが必要で、こうしたら、やめられる、っていうのは、難しいと思います。
依存が進んだら、人として見捨てられるので、受けれられることもなくなります。自分自身も自罰的に行っているから、自分を受け入れることもできないです。だから、依存から抜けるのは難しいのです。



依存をすると現実を見ないで済みます。
そして、その依存さえなければ人生がばら色だ、というような夢を見ていられます。
でも、依存がなくなったら、厳しい現実が待ち受けています。
だから、自分が依存しているということを、認めるのは難しいのです。



わたしは、厳しい現実の中で生きられるようになりたいです。それは、自立を意味しており、自立には自律が必要で、でも、自分を節制すると、自由になります。


依存しているものに振り回されず、自由に生きられることを目指したいです。
だから、わたしは、依存先を増やします。


わたしは自分が過食を選んだことをほめたいです。
そして過食の頻度をなくすには、依存を増やすことが大事だと思います。
過食の回数が減れば、過食をやめられなくても、体や経済的負担が減ります。
やめることも大事ですが、依存先を増やして、つまり、依存によって自己嫌悪になるのでなくて、依存を楽しめるくらい、個々の依存を薄めたいです。


依存は楽しいけれど、自己嫌悪をするから楽しくないというループをなくすには、自己嫌悪に達する前に、違う依存先にくるくるダンスをするように、依存先を渡っていくことが大事なのではないかと思います。


だから、わたしは依存をやめることを強く思うよりも、依存先を増やすこと、安全な依存を選ぶことを目標にしたいです。