c71の一日

生活の記録

複数のパートナー

二人のパートナーがいる。二人とも男性だ。
わたしは二人ともにそのことをオープンにしている。

話し合って決めた。世の中の多くの人はそうしていないことは知っている。でも、わたしにとって必要なことだった。
どちらの人も、わたしは好きだし、素晴らしい人だ。



リスクを分散させたいという気持ちもある。子供を産んだとき、パートナーが複数いたら、どちらかが死んでも、なんとかなる。わたしが死んでも、二人で協力して育ててくれるだろうと思う。



わたしはわたしだ。それ以外のものだったことは一度もない。

自分らしくいることがなによりも大事だ。エゴイスティックだと評されたとしても、それは外部の評価だから、わたしには関係がない。


社会とのかかわりはとても難しい。でも、私的な範囲では自由にしていたい。



誰に対して公表するのかは別の問題だが、わたしは自分の記録として、語っていきたい。



わたしはもう嫌だ。自分をごまかすことも、媚びることも、人の考え方に合わせることも、もう精いっぱいやってきた。
そろそろ、自由になりたい。自由になりたいと思った瞬間に、自由になれるのだとわかった。


わたしはもう自由で、何をしてもいい大人だ。



個人的な好みで、人を積極的に傷つけるのは好まないけれど、それでも、自分が求めるときに、必要なことは、自分自身で選び取っていきたい。



今まで何度も意に添わぬことをしてきた。人に相談すると、穏当な答えをもらえる。だから、もう、人に相談するのはやめた。自分と、パートナーと相談して、決めていきたい。




人に合わせることで、「ふつう」になって、「ふつう」が息苦しくなって、苦しんでいる人をたくさん見た。
「ふつう」を選び取ったのは自分自身なのに、好んで「大変だ」という。



わたしはそういう風になりたくない。自分で選んだことを、大変だと言いたい。



誰も、わたしも、わたしに同情なんかしない。そういう生き方がしたい。自業自得だと後ろ指をさされているほうが自然だ。



昔から、生まれた時から、わたしはほかの人と違っていて、ほかの人だって、本当は同じ人なんていない。
だから、選択肢も、それぞれ多様であるはずだ。でも、今はそうじゃない。



今そうじゃないからといって、わたしをとどめているものは何だ?



「ふつう」を目指して、苦しくなって、死んでいく人は何だ?



本当は何もないのだ。何もないところに、何かあると思って、自分の中に規範を作って、それで自分を縛っている。


わたしはその縛りから自由になりたい。