c71の一日

生活の記録

嫌なことを嫌という自由、自分を守る盾

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フラッシュモブで離婚したという事例も、スキンシップをした事例も、根は同じで、「人が嫌がることをすることにためらいがない人がいる」という話だ。



他人に、許可なく触ってはいけない。それは、相手の境界を侵害するからだ。人には「自分の体は丸ごと自分のものだ」という感覚があり、勝手に触られるとそれが損なわれる。それが損なわれると、楽しく生きていけない。



信じた相手に、きちんと嫌だと伝えたことを、勝手にされるのも、自分の気持ちを踏みにじられたことだ。フラッシュモブを好きな人も嫌いな人もいるだろうが、ポイントはそこではなくて、「嫌がることをした」相手と、一生添い遂げられるか、という話だ。そこで許すと、相手は、何をしてもいいのだと考えて(考えるというほどじゃなくて、たぶん、自動的に)行為をエスカレートするだろうし、そこには修復も反省もない。もともと、そういうことはしてはいけないのだと、結婚するような年になっても学べなかった人に対して、根気よく学ばせる義理は誰にもない。
それをさせる外部圧力も必要ない。


人は自由で、自分を主張して生きていける。だから、勝手に人のことを触ってはいけないし、勝手にフラッシュモブをしてもいけない。




それだけの話なのに、どうして、話の本筋がわからない人が多いのだろう。



スキンシップと称して、勝手に触る人がいた。それに対して、怒った人がいた。触った人は、被害者のように「触ってはいけないなんて教わらなかった」という。自分が触られても平気だから、触ってもいいのだと思ったのかもしれない。


でも、人間には体格差や、社会的な地位の強さや、格差がある。それを無視して、完全に平等だということはありえない。そして、完全に平等だったら、人に対して無断で触る、ということは生じないだろう。


無意識に、権力格差を利用して、触ろうとしたのだから。触る側には快があったとしても、相手にとっては不快かもしれない、という考え自体が浮かばない。そのこと自体が、男性という権力に守られてきた証左だ。




人の嫌がることをしない。そんなシンプルなことがわからなくても、大人として、働いていける。そんな社会はゴミみたいなものだと思う。
触る場所によっては良いはずだ、という人や、いろいろな人がいたようだけど、相手によって良かったり悪かったりすることは当たり前にあるし、(この人だったらセックスしてもいい、とか、この人だったらはぐしてもいい、だとか、選べるのは当たり前だ)、それを不公平だという人は控えめに言って社会性を失っている。関係性によって、触っていいかどうかは決まるし、あらかじめ、許可を取ればいいのに、それもしない。
それは怠慢だ。





してもいいかと聞くのは、場合によっては自由だ。場合によってはそれ自体も嫌がらせになる。
でも、嫌なことを嫌だというのは、いつだって自由だ。


嫌なことを我慢していると、心の何かが死んでいく。
死んでしまったものを誰も助けることはできない。自分自身にさえできないのだから、相手方にも要求できない。相手側とそもそもかかわりたくない。
だから、嫌なことを嫌だというのは、自分を守る盾なのだ。


スキンシップのような大きなことを、勝手にされて、断られて愚痴をいうのはナイーブに過ぎる。加害者なのに、被害者のふりをして、触られてしまった被害者のほうを責める。それが成り立つと思っている。



嫌なことを嫌だといっても、もうすでにされてしまったことは消えない。残念なことだ。
それでも、嫌だ、ということで、守れる何かがある。


嫌なことを嫌だ、というのは、本当は柔らかな、誰も傷つけない自由なのだ。