c71の一日

生活の記録

虐待されたと公には語ってはいけない、のか




このツイートは、必ずしも、「虐待されたことを公に語ってはいけない」とは言っていないのだけれど、「虐待されたことを語るならば、連鎖を止めろ」ということを語っている。


それは可能だろうか?

考えたみたい。



考えた結果、まあ話すことにしたんだけど。



虐待された人は、虐待されている状態がデフォで、世の中に放たれるから、やっぱり、自分を虐待するような人と一緒になってしまって、虐待され続ける。


それは、自己肯定感が少なくて、愛に飢えているからだましやすくてちょろいから。
そして、自分が暴力にさらされても、それが当たり前だと思って、暴力を受けることを疑問に思わない。


そして、自分が虐待されていたから、暴力に対するハードルが低いという意味で、自分も虐待する側にまわってしまう。


自分が虐待されるし虐待するし、もうわけわかんない、ということになる。


実際、虐待する母親はそれが楽しくてしているわけではなくて、したくないけれど、止められなくてしてしまうという人もいるようだ。


父親のことは知らない。


確かに、自分が虐待されていた、ということを話すのは後ろめたい。

だって、「おかあさんが、育ててくれたおかあさんが、非のある人間だということを公にする行為」だから。


でも、虐待されていたことに、気がつくのは、虐待を止める第一歩である。


これは、逆で、虐待の連鎖を止めてから「初めて語ることができる」というのでは遅いのだ。
虐待されていた、ということを話すことで、初めて、虐待の連鎖を断ち切れるのだ。


子どもに手がかからなくなってから?それでは遅い。


子どもを持たない予定かもしれない/女性とは限らない/生めないかもしれない/途中で死ぬかもしれない/育てることができないかもしれない。


虐待されていたことを話すのに資格はいらない。



似ているのは、当たり前のことだ。




気づいていないわけがない。
虐待されていた人が、気がついて、最初に本を読んでたどり着く事実が「大人になってからも、自分は虐待されやすく、虐待しやすい人間だ」「ACは親と違う人生を歩もうとしても、全く同じか、全く逆の人生を歩みやすく、その影響からは逃れにくい」という事実だ。


「そんなことも理解しないのか」という言い方を聞くと、「うっ」となる。自分が責められているわけでもないのに、苦しくなる。



でも、よく考えたら、別に否定するようなことじゃない。



わたしたちは、母親に似ている。虐待され、虐待するかもしれないという点で。
虐待の状態を、普通だと思い込まされている点で。
その習慣で。
生活上の小さなしぐさが。

だからこそ、「わたしは虐待されていた、おかあさんはこうだった」と人に話す必要がある。



主治医に「わたしはおかあさんに似ているかもしれない」と話したら、
「まあ、同じ人類だから、無理に探せば似てるところもひとつくらいは見つかるんじゃない?お米を食べるとか」と言っていた。