c71の一日

生活の記録

犯罪被害と自衛の精神論

わたしが犯罪被害に会ったとき、犯罪者は夜のファミリーマートで、「襲っても勝てそうな女」を物色していたそうだ。だから、それが、わたしであっても、わたしでなくても、誰かが一人は、被害者になるのだった。わたしが自衛しても、被害者の数は減らせない、ということだ。強そうか、弱そうかのジャッジは、もちろん、犯罪者がすることなので、そのテストに受かるかどうかの保障は全くない。

犯罪者から見て、わたしは弱々しいだろうか、と常に自己点検したところで、犯罪者が、「ああ強そうだからやめておこう」と思ってくれる見込みはあまりにも少ない。


あの日、わたしは、会社帰りで、雨の中、いつものように、歩いて帰っていた。これを不用心だというひともいると思う。タクシーで帰るべきだと。でも、手取りで十五万円もない、人間が、そんな贅沢もできるわけでもなかった。十三万円くらいだったかな?


私の後を、ひたひたと足音が追ってくる。わたしは疲れていて、この方向に来る人も多いから、不思議には思っていなかった。最後の角を曲がるとき、足音が、すぐ後ろに迫っていることに気づいて、背筋がぞっとした。映画の中にいるみたいな、浮遊感がした。立ち止まった。後ろから抱きすくめられ、羽交い締めにされた。隙間の中で振り返ると、真っ黒な顔があった。
「これは、なにか、悪い夢か映画だろうか」と一瞬思ったのもつかの間、犯罪者の顔は驚きの表情に変わり、わたしの首を絞めた。何度も殴られて口の中を切った。
わたしは暴れて、叫んだ。人が集まり始め、犯罪者は、バッグをとろうとして、逃げ去ろうとした。
わたしは、バッグを肘にかけ、足を踏ん張って、とらせないようにした。住所が知れるのが怖かったからだ。

その後、近くを通りかかった男性が、「どうしたんですか」と叫び「泥棒です」と叫び返した後、誰かが警察を呼び、近所の人が毛布を持ってきてくれ、先ほどの男性が、泥棒を捕まえたのだと教えてくれた。
警察の人は優しくて、パトカーに乗せてくれた。わたしは興奮していて、何もかもが平気だと思っていた。うまく、やりこなしたと、自信を持ってさえいた。
犯人の顔を照合したとき、この人です、と叫んだ。高揚があった。
殴られた後の顔が腫れていた。証拠として、警察の人が腫れた顔を撮った。

警察署につれられて、事情聴取を受けたとき、わたしを助けてくれたたくさんの人が、ベンチに座っていた。お礼を言いたかったけれど、そのまま救急車に運ばれてしまった。すぐ戻れるから、と思っていたけれど、退院するのは、一週間後になった。


けがはしていない、と言ったけれど、念のため、と救急車で運ばれた。
腕がだるいと訴えた。そうしたら、左腕の神経が持って行かれていると言う。要するに、断絶しているのだと。今晩中につながらなければ、手術です。戻らない可能性もあります、と言われた。
当直の先生は、外科ではなかったものの、ベテランで、調べながら最善の治療をしてくれた。医学書の開いた山で、診察室が散らかっていた。

神経のちぎれたところの特定をするために、なんども、触診をした。わたしが過呼吸になりかかっているのを見て、精神上に問題があることもわかってくれ、精神が休まる薬と、痛み止めを出してくれた。
わたしは救急入院した。


ネット上の友人と、会社の偉い人がその日のうちに、お見舞いにきてくれた。
母は三日後に来た。



救急病院は慌ただしく、いつも糞尿のにおいがした。わたしはそれに慣れた。
誰かが死んだり、生き返ったり、していた。

興奮は冷めて行った。

わたしは、退院の日、一人で荷造りをし、一人で、警察のパトカーに乗り組み、実況検分をした。どんな風に、抱きつかれ、どんな風に、首を絞められたのか。
警察の人は親切で、わたしが思い出さないように、配慮して、女性の方を相手に選んでくださった。真剣にならないようにね、と、冗談を交えながら、やってくださった。


家まで送り届けてくれて、何かあったら、いつでも連絡してくださいね、と言ってくれた。


家に帰ったら、わたしは一人だった。
何もやることがなかった。
暗闇が怖くて、電気を全部つけた。
話しかける人がいなくて、毛布の中に丸くなった。眠りに落ちるのが怖かった。
家の中に誰かが潜んでいる気がした。
水が落ちる音にも怯えた。


明るくなってからも、ドアの外に誰かが立っている妄想が止まらなかった。
コンビニにいくのが恐ろしくなっていることに気がついた。
スーパーマーケットにいくのも恐ろしかった。
会社に一度行ったが、パニックを起こして、キーボードが打てなかった。
涙が出そうだったが、もう混乱していて、わけがわからなかった。
電車が恐ろしかった。エスカレータの後ろに乗っている人間が、わたしを刺すかもしれないと思った。
満員電車で殺されると思った。この人たちはいつでも、わたしを殺せる、そう思った。
このとき、わたしは、何に対しても自衛していた。
鍵をかけて、家にこもっていても、誰かが鍵をこじ開けて、侵入してくるのではないかと怯えていた。これは、最上級の自衛だと思うが、それでも、わたしは不安発作に襲われていた。これは、あながち妄想じゃなくて、鍵をこじ開けることは、実現可能なことだし、絶対にありえないこととは言い切れない。可能性の有無を、ゼロ/イチにわけるとしたら、わたしのこの行動には、合理性があるのだった。
これは、正常な反応だったらしい。犯罪に巻き込まれると、何もかもに、自衛しなくてはと、過剰な気持ちになる。

でも、何もかもに自衛していたら、精神が疲れ果てて、実際に必要なことは何もできないのだった。
スーパーにも行けず、電車にも乗れないわたしが、どうやって、会社で働けば良いんだろう?


ある程度の楽観さ、無神経さ、自分にだけは犯罪は訪れないと、無意味に信じる心なしでは、日常生活が送れないことをそのときに、知った。


最高に、自衛の精神を働かせていたわたしは病んでいた。
わたしは、少しずつ、世の中を信頼することを、取り戻して行った。そうしないと、社会生活が営めないので。暮らして行けないので。それで、ひとつずつ、自衛を失って行った。

世の中を信頼しなくては、幸せに生きていけない。
日常生活も送れない。
日常生活とは、世界に対する信頼の上に成り立つのだ。
自衛論者は、自衛する側に、普通の日常を手放せと脅している。
正常な精神を捨てて、病みさらばえよ、と同じことを言っている。


わたしは、すっかり、油断するようになり、幸せを取り戻して行った。
コンビニも、スーパマーケットも、夜道も、暮らして行くためには、避けて通れないから。
そのためには、入院もしたし、治療も受けた。薬も飲んだ。


でも、世の中の人は、被害者に対して、もっと自衛せよ、という。
エレベータの後ろに立っている人が、自分のことを刺すかもしれないと、常に警戒している暮らしが、どんなものか、知らないのだろう、と思う。
最高に自衛していたときのわたしは弱そうだっただろう。だから、きっとどんなに自衛しても、いや、自衛すればするほど、精神的に不安定になって、より、狙われやすくなっただろう。
そして、わたしはどんどん幸せから遠ざかっただろう。


わたしは、自衛しなくなって、幸福になった。仕事も辞めた。引っ越しもした。代償は大きかった。