c71の一日

生活の記録

犯罪被害にあって、入院したときのはなし

今日は、午前中のコンビニアルバイトを除いたら、仕事が休みでした。
やることもないので、疲れを取ろうと思って眠っていました。他にやることもないので、ツイッターで、わたしのブログを読んでくれた人の感想を求めてさまよい歩いていました。これは、良くない過ごし方だと思いましたが、一生に一度のことだと思うので、自分を許そうと思います。そんなに、神経を使わないような趣味を作らないといけません。革細工なんて良いかもしれないです。



わたしは、犯罪にあったあと、比較的すぐ、カウンセラーや、精神科にかかりました。
裁判所に犯罪専門の無料カウンセラーがあるというポスターが張ってあったからです。そこにも通いましたし、会社の近くの精神科に通いました。それは、仕事を休む必要があったからです。先生は、仕事は休んだら、復帰が難しいから無理にでも仕事はした方が良いと言いました。わたしは、今でもそれがどちらが良かったかわかりません。


仕事がなかったので、わたしは、暇でした。
なので、悪いことばかり考えました。本を読んだり、テレビを見たりする集中力もなく、ただ呆然としていました。
今でもテレビは見ることができません。テレビは、不意に音が大きくなったり、悲惨な映像やニュースが流れたりするので、その度にパニックが起きるからです。
家の近くのコンビニに、かろうじて、簡単な食べ物を買いに行って、暮らしました。
貯金が尽きた頃、事情を話して、親元に帰りました。会社は紆余曲折してやめました。
地元の付き合いのあった精神科にかかり直して、事情を告げたところ、「ボクの力では手に負えないので、専門家に任せた方が良い。入院しましょう」ということになりました。
入院先のベッドがあくまで二週間かかりました。
その間、わたしは、激しく泣いたり、家の中で暴れたり、外で叫んだりしていました。父を激しく責めました。部屋にこもりきりだったので、二番目のおかあさんは、気を使って、簡単な手伝いに誘ってくれました。
二番目のおかあさんは、かなり戸惑っていました。父は、「叫んだりは、やめられないのか…」といっていて、「早く入院できればいいね」と励ましてくれました。


入院先の先生は、女医さんで、かなりはきはきした先生でした。
わたしはもともといくつかの問題を抱えていました。
わたしは、不安発作とパニック発作がかなりひどく、病院内を歩くときに、男性とすれ違うだけで、悲鳴を上げて、座り込んでしまうありさまでした。

「恐怖経験をして、無意味にアドレナリンが出るから、疲れすぎてしまう。ものごとには、適正なバランスというものがあって、今はそれが極端になっているから、休憩だと思って、休みましょう。病気をするのにも疲れるから」とのことでした。

「入院するのは、怖いんだよね。怖かったんだよね?」と言われました。
わたしは正直に、「怖いです。どんなひとがいるのかもわからないし。とうとう本当に頭がおかしいということになるのだと思います。友だちにそう言われました」と言いました。
「それはずいぶんはっきりものごとをいう友だちだね。大丈夫。わたしはね、病棟の人たちが好きなんだ。少なくとも自分を偽ってはいないもの。わたしは、狂った人とか、キチガイとか、言うひともいるけれど、キチガイなんて病気はないからね。そういうのの病名をつけるのは私の仕事なの。そして、病名をつけたからっていて、良くなるわけじゃないから、わたしは病名をつけるのはあまり好きじゃないけれどね。


ここにいるのは、病気の人なの。わたしはね、世の中にキチガイの人なんて一人もいないと思ってるの。だって、キチガイって病気はないからね。ただ、野に放たれた人はいるかもね。自分の問題を認められないままの人がね。そういう人の方がわたしは怖いなあ。何をするかわからないものね。自分がどういう状況か認めてないわけだからね。


そういう野に放たれている人よりね、病気だってことを認めて、自分の病気と向き合って闘っている人の方が好きだし、安心できるの。世間の人には、変な人もたくさんいるし、無神経に人を傷つけても平気な人もたくさんいる。だけど、ここの病棟にいる人たちは、自分が悪いと思っている人がとても多いの。そして、そのことに向き合って、良くしようと戦っているの。だから好きなの。だから、大丈夫。あなたも、ここで、思う存分症状を出していっていいから」
と言ってくれました。



このとき、先生は、わたしの話し方から、自閉症スペクトラムであることを疑っていたらしいです。
事件の影響と、もともとの性質を知るために、心理の先生を中心に、テストを受けることにしました。


わたしは、先生の判断で個室に入りました。好きなだけ暴れたり叫んだりできるからです。夜眠れなかったり、昼間恐ろしくて眠ってしまったり、無理をして、決めた体操や日記を書いたりしすぎて、疲れすぎたりするペースを守れて助かりました。
わたしは、最初、食事のときのお盆を取りにいくことができませんでした。男性が怖かったからです。
男性とすれ違うたびに、ヒッと叫びそうになりました。
大声を出す男性の患者さんもいて、「おい」と呼びかけられただけで、泣いて座り込んだこともあります。


特別な治療は、なく、安静にすること、適度な運動をすることが、治療の主な内容でした。
けれど、ようやく安全なところに来られた安堵感は大きかったです。
看護師さんの中には、男性もいましたが、少しずつ慣れて行きました。
テレビは時々見られるようになりました。
NHK教育だけを見ました。ニュースがなく、音が静かで、毎日番組が決まっており、安心したからです。



一週間経つ頃、お茶会に呼ばれて、他の人と一緒になりました。親切にしてもらいました。ここで、周りの人と少しずつ関わりを持つようになりました。
わたしの世界が広がってきました。



そして、そこから、作業療法というものが、始まりました。手芸や工作、美術などを通して、治療をはかるというものです。これは、とても楽しみでした。毎日二時間だけすることができて、わたしは、人のいない午前中を狙って毎日通いました。この治療は、昼間起きること、集中力を取り戻すこと、自分にもできることがあること、手を動かしながら作業療法士さんと会話をすることが、治療の役に立ちました。


わたしは、最初編み物をしたり、シュシュを作ったり、布で、カチューシャを作ったりしました。
それから、女医さんと同じ靴が欲しかったので、革細工で、革の靴を作りたいと思い、作業療法士さんに相談しました。
「作ったことはないけれど、やってみましょう」と作業療法士さんは言ってくれました。
わたしには、作戦があって、作業療法室にある本の中に、革のスリッパの型紙があるので、それを使えば靴ができるのではないかと思ったのです。それをプレゼンテーションしました。
女医さんは、そのプロジェクトをおもしろがってくれ、時々、「おもしろいことやってるんだって?はじめてだって、Mが言ってたよ」とのぞきにきてくれました。


わたしは、型紙作りからはじめて、革の加工について学びました。型紙を作り、革を裁断し、穴をあけ、立体的に縫い付けること。靴の型がないので、難しかったですが、出来上がったときには、嬉しかったです。二十時間くらいで作りました。
Mさんはもと銀行員でした。わたしは、仕事を辞めて、これからどうしようか迷っていたので、Mさんと仕事を辞めたときどんな気持ちだったか聞きました。
「いつまでも女の子扱いされて、同期の人は出世して行くけれど、先がないのがわかっていたし、仕事にやりがいはあったけれど、楽しくはなかった。それで、九年やったからもういいかな、と思って、作業療法士になったの。新しく勉強するのは大変だったから、転業するのはすすめないよ。給料は下がって、運良く就職できて、でも、患者さんと毎日話しながら、作業をするのはすごく楽しいし、やりがいがあるから、もう二度と銀行には戻りたくないな」と言っていました。


患者さんはみな、甘えたがりで、何かあるとすぐ作業療法士さんを呼びます。そうするとMさんは嫌な顔せずに、嬉しそうに、はーいと返事をして、すぐに向かうのでした。


そのころから、リストカットで入院している子、摂食障害で入院している子と親しくなりました。
年は十歳くらい離れていましたが、その子たちはわたしに、年齢を感じなかったようで、分け隔てなく接してくれました。
彼女たちは、手芸をしながら、おしゃべりやうわさ話をしていました。わたしは、人と話すことが、とても疲れやすく、二時間も話すと、へろへろになってしまい、「ごめんね、もう倒れそう」といって、部屋に戻って休みました。
彼女たちは、お互いのペースがあることを知っているので、相手が戻っていたり、いつもと違っていても、気に留めません。とても楽だなあと思いました。


わたしは、そういう風にして、少しずつ世界への信頼を取り戻していったみたいです。


わたしは、二番目のおかあさんに対して、かなりわがままでした。じぶんがわがままだときづくことができなかったのです。やれ、スキムミルクを送ってほしい、スケッチブックを送ってほしい、するめいかを送ってほしいなどと言って、おかあさんのペースや忙しさを考えずに自分のことばかり言いました。今思うと恥ずかしいです。

他には、毎日日記を書き、この機会だから、自分の精神に起こることを全部書き留めて記録にして、いつか発表したい、と思っていました。それは、きっと世界の中の誰かの役に立つはずだし、一人の役に立てれば、それは希望だから、そうしようと決めていました。
その決まりごとに縛られすぎて、苦しくなったこともありますが、ずっと書いていました。
人生に一度しかない経験をしているのだから、しっかり取材しよう、と思っていました。
この経験は、必ず、誰かの役に立つし、少なくとも、家族にわたしのことを伝えることはできるから、絶対に記録に残そうと心に決めていました。
その張り合いが、治療に良い方向に進んだと思います。



一ヶ月くらいかけて、精神のテストが出てきました。わたしは、自閉症スペクトラムということでした。初めて聞く言葉に、わたしはきょとんとしていたと思います。それが、どういうことなのか、言葉の意味を知りませんでした。

「勉強で、困ったこと、ないですよね。うらやましいですよ」と心理の先生は言ってくれました。
「普通の会話や、ストレスがかかったり自分のことを主張しないといけないときの会話の傾向もおかしいことはないですが、対応がひとつしかなくて、自分が我慢するという方向だったり、一息つく、という選択肢がないのを今後気をつけると良いと思います」と言ってくれました。
わたしには、さまざまな能力があって、言葉やストーリに関する能力がかなり高いこと、言われたことをほとんど完全に記憶して、要約する能力があること、運動能力が少し低くて、不器用なことなどを説明されました。基本的には、悪いことはあまり言われなくて、良いことだけを褒められたので、わたしは気を良くしました。


「得意なことを伸ばそう。でも、自閉症スペクトラムだからって、これはできないと、引っ込み思案にはならないで、これは無理だと思わないで。失敗しても良いから、やりたいことからやっていこう。そして、まず、あなたは、なんでもいい、アルバイトでもなんでもいいから、とにかく仕事を見つけて働いてほしい。そうしないと、人間は心を病んでしまうものだから。人は、社会的な存在で、人と関わることで、発展してきたから、仕事を通してだったり、子育てを通してだったりして、社会と関わらないと病気になってしまうよ」
と女医さんは言いました。

わたしが、退院したのは、それからさらに一ヶ月後でした。

入院中に、中学生の子や高校生の子に、勉強を教えました。
今、つらいことを紙に書いて作文に書いてみて、と練習してもらったりしたところ、それがきっかけになって、ご家族と話せて、退院するきっかけになったこともありました。
病院内のお祭りに一緒に行ったり、売店で買い物をしたり、脱走劇を見守ったり、したのも良い思い出です。


わたしは、少しずつ回復して、退院をしたいと望むようになりました。


それは、暴力を通して、失われた、世界への信頼感の回復でした。
精神科病棟という小さな水槽の中で、自分の苦しみと向き合っている人たちとの生活を通して、わたしは、それを得たのです。


追記:これが流行ったときは二日で三万ビューでした。