c71の一日

生活の記録

文章を発表することの怖さ

夏の木漏れ日が、目を刺す。
朝の冷たい風が、熱くなった体の表面を撫でていく。汗が気化して、少しだけ涼しい。

早朝のコンビニ帰りに、道を歩くと、今日これからの仕事を考える。
今日の生徒さんは、元気で来てくれるだろうか、どの教科を持ってくるだろうか、今日も楽しんで勉強に取り組んでくれるだろうか、と思う。
一週間ぶりに会うので、とても楽しみだと思う。毎日、そういうたいした楽しみが私の身の上に起こるのは、信じられないような魔法だと思う。

わたしはいわゆるワープアで、社会保障も何もない。失業保険にも何も入っていない。会社はなにもわたしを守らない。キャリアアップもなければ、雇われているわけですらない。だから、日銭を稼ぐと書いたけれど、そんなことは、本当は説明しなくて良いことなんだと思う。
誰も、わたしの本当のところなんて知らない。文章を読んで、受け取ったことがすべてなんだ。

頭ではわかっていたことだけど、実際に波を受けると、説明したくなる。
話して回りたくなる。言いたいこと、説明したいことがある。それは誤解だとか、こういう事情があるから可能なんだとか、まねはしないでほしいとか、わたしにはできないことがたくさんあるから、できる範囲で選ぶとこうなるんだとか。ひとつひとつの事情を全部話して、わかってほしいと思う。そうしたら、きっと納得してもらえるんじゃないかと思ってしまう。


まだ、わたしは一対一で話し合っている気持ちでいるんだと思う。今までのように。
だけど、これは一対多なんだ。一日で三万五千人も見に来たんだから。その人たち全部にわかってもらうことなんて、できない。無理だ。


そんなことは不可能だ。そんなことをしたらおかしい人だ。なのに、わたしはそうじゃない、わかってほしいと思っている。思ってしまう。言いたかったことを、正確に分かってほしいと、伝えたくなる。
正確に分かってほしいなんて、傲慢だと思う。けれど、説明して回ることはできない。せめて、次の課題は、より正確に文章を書くことだと思った。それしかできることはない。


それでも、読み手のコンディションによって、文章は色を変えてしまうから、わたしが読んでほしいと思ったようには読まれない。


だけれど、誤解されること自体はとても良いことだ。
わたしを好きじゃない人まで、遠いところまで、文章が飛んでいったということだから。
言葉が旅をして、わたしの知らないところへ行く。


わたしは今までと何も変わっていないのに、インターネット上でのわたしの書いた文章の取り扱われ方はずいぶんと変わった。

いろいろな読み方があるものだと思う。

ついつい、どんな読まれ方をしているのか、知りたくなる。
書き足りなかったことはいつもあって、そこがわからないと言っている人には、つい、説明に行きたくなる。

でも、一度書いた文章は、もうわたしのものではない。読んだ人のものだ。わたしはどうこうすることができない。


それでも、わたしが書くのは、私自身が何を考えているのか知りたいからだ。
書きながら考えているので、どこに着地するのかわからない。そこが不思議で面白い。



インターネットで、たくさんのひとがわたしの文章を読んだ。
そして、いろいろな意見を言う。
それはあまり経験したことがないから、そわそわして、面食らう。怖いとも思う。平静を保てない。気になってしまう。
嬉しい反面、自分の心のキャパシティを越えていると思う。
なるべく、考えないようにして、仕事のことを考えて、現実の世界に集中していないと、心の大事な部分を持っていかれそうな怖さを感じる。


だから、わたしは、調べにいってはいけない。他の人がどう思っているのか、必要以上に探ってはいけない。そう自分を戒める。