c71の一日

生活の記録

弱い人に同情を迫るひとたち

ときどき観察できるのだけど、弱い人が苦しさを吐露したときに「こっちもたいへんなんだ」という人はいる。


弱い人というのは、立場が弱かったり、肉体的に弱かったり、精神的に弱かったりする人のことだ。

わたしは、たぶん、そういうことをしたことがないので、不思議だなあと思っていた。絶対ないとは言い切れない。自分がつらくて、周りが見えなかったときは、相手の状況を考えずに、ひどい言動を取っていたと思う。病気がひどくて、記憶があまりない。申し訳ないと思う。


弱い人に対して、ずるい、と思うのはなぜなんだろうか。
自分の方がもっと大変なんだ、というのは、なぜなんだろうか。それを言う相手が、自分よりも弱そうな相手になるのはなぜなんだろうか。

優越感を感じたいから?
楽をしているように見えるから?
弱い立場を利用しているように見えるから?

でもたいていの病気の人や、障害を持った人は、人生の先行きに不安を感じている人が多いような気がする。
「健康な普通の人」が持つような問題も持った上で、病気だったり、障害を持ったりしているから、普通の人よりちょっとつらいのだと思うのだ。
だから、その「ちょっとつらい」部分に対して、援助が得られたりするのだと思うのだ。
でも、それも、援助を得るまでに動いて、戦わないといけないので、別に楽をしているわけじゃない。援助をしてもらって、ちょっとつらい、が薄まるくらいなんだと思う。
だから、ずるいと思っていただくに至らない。


強い人に、同情を迫る、というのはわかる。強い人、というのは、主観だから、実際にその人が苦悩しているとか、つらさがあるとかが、わからなくてしてしまったことはわたしにもある。

強い人、というのは、地位や権力やお金や健康がありそうに見える人のことをこの場合では指そうと思う。

強い人に、その力を分けてよ、使ってよ、想像してよ、という意味で迫る、というのはわかる。


強い人が強い人であるのは、個人の努力と属性と運で決まっていると思う。そういう人に、もし余裕があれば、こういうことを気にかけてほしい、と訴えたり、構造的な問題があるから、それに向き合うべきだ、ということは良くある。わかる。


でも、失業をした人が、失業してつらい、とか、病気の人が、病気がつらい、と言ったとたんに、わらわらと「でも、こっちもつらいんだ」「努力が足りない」「こうすれば良い」「頭を使え」「自分の方が苦労している」と全然違う分野なのにも関わらず、現れてくる人がいる。


あれはいったいなんだろうと思った。

脈絡がないし、関係がないし、ただでさえ、たいへんな人に、「自分もたいへんなんだ」ということになんの意味があるのか、本当にわからないと思った。
なにしろ、それを訴えたところで、改善しない。お互いの状態が改善しない。
苦しみを持った人が、わたしはたいへんで…、というはなしをして、実は、こっちもうまくいっていると思われているけど、そうじゃなくて…、と言う話をするならわかる。お互いにお互いの話を聞いて、うまくいっている人なんていないんだ、励まし合ってやりすごそう、と助け合うのはわかる。


でも、そうじゃなくて、もっと高圧的に「それくらいで!」「もっとたいへんな人はいる!」「努力が足りていない!(自分は努力している)」「同情を集めようとするのはみっともない」「こっちの方がもっとたいへんなのに、自分のことばかりだ!」と言ってくる人は、端的に言って変だ。
たいへんな人は、そりゃあ、たくさんいるだろうが、自分がたいへんだ、というのは個人的な話なんだから、別にしたところで、文章を読んだ人の何かが減るわけでもなんでもない。


文章を書いた人は、読んでほしいとは思っているかもしれないけれど、ピンポイントで、その人に話を聞いてほしいと頼んだわけでもないんだから。

たとえ、同情を集めるのがみっともなくても、みっともないのは、本人だから、周りがみっともないよ、と教えるのも変な話だし、みっともないなあ、と自分で思っていれば良いことなんだから、人に押し付けるのは暴力だ。こっちのほうがもっとたいへんだ、というのは、話がずれているから、話題と関係がない。話題と関係ない話を怒りながらする人は、対人関係に問題があるのではないだろうか。
空気が読めていない。(と、空気が読めない病気のわたしがいうのもおかしいが)



権力のある人に、たいへんなんだ、と訴えれば良いのに、そうはしないのだ。不思議だ。権力のある人に頼めば、良い知恵を貸してくれたり、構造を変えてくれたり、お金を出してくれる場合もあるかもしれないのに、立場が弱い人に、「こっちだってたいへんなんだ」というのは筋が通らない。意味不明だ。


思うに、権力がある人に対しては、そういう人たちは、たいへんだ、とは言わないんじゃないだろうか。権力のある人に対しては、「何の問題もないです」みたいな顔をしているんじゃないだろうか、という気がする。


なぜなら、権力のある人に対して、弱みを見せると、人生が不利になる恐れがあるからだ。わたしが上司に、「発達障害なんで、同情してくださいよ」と言わないのと同じことだと思う。仕事に配慮してもくれる可能性もあるけれど、仕事を干される可能性もあるからだ。それに、うまくいっている(ように見える人)って、人の痛みに同情してくれるのか、不安な感じがする。
そう考えると、弱い人に同情を求める人たちの考えていることに筋が通る。


とはいえ、わたしの場合は、人が困っているときに、余裕のある人ほど、合わせる余裕もある場合があるから、相手を見ながら、助けを求めるようにしている。仕事として、頼むことが一番多い。それが一番安全だ。


思うに、弱い人に同情を求める人は、仕事として、自分の苦境を助けてもらう、という習慣がないのではないだろうか。
弱い人は抵抗しなさそうだから、ただで、同情や仕事になるようなことを求めても、自分にはダメージが来ないと思っているんではないだろうか。


それは搾取だ。


弱い人に同情を求める人たちは、搾取をしている。
強い人に同情を求めれば、それは搾取にならない。


弱い人に同情を求めれば、困ることが起きない。それは保身だ。
弱い人は発言権もない場合が多いし、抵抗力も弱い。だから、好きなようにできる、と思ってるんじゃないだろうか。苦労して、つらさも知っているだろうから、自分の話もただで聞いてくれると思っているんじゃないだろうか。
病人や障害者は優しいと幻想を抱いていて、それが思った通りじゃないときに、怒るんじゃないだろうか。


そう思うと、同情を求める人たちが、求めながら、怒っていることに説明がつく。
ずるい、って、わたしのことを思っていることに説明がつく。


わたしが自分のことばかり考えているのは、わたしにとって当たり前のことだけど、それが許せない、ような気持ちになることに説明がつく。自分のことしか考えないわたしを許せないと思ったとしても、その人に利益は一ミリも生じないんだけれど、そこまで考えないみたいだ。ちょっと面白い話だ。


わたしの身近な人が、わたしが「自分のことしか考えていない」と思ったら、怒るだろうし、愛想を尽かしてしまうかもしれない。だから、わたしは周りの人のことを考える必要がある。でも、わたしは、自分の気持ちを単に文章に書くとき、身近じゃない人のことまで考えなくても良いと思っている。


わたしのことを弱いと思って、そして、人に同情を迫る人は、わたしのことをきっとずるい、と思ってるんだろう。だから、怒っているんだろう。
わたしは障害の部分では、困っていることが多いけれど、でも、理不尽な要求が突きつけられたときには、いやだ、と言える。言いたいと思っている。


弱い人に同情を求める人たちは、ぜひ、自分よりも権力がある人や、対等な人に同情を求めるように考えを変えてもらいたいと思う。それは、わたしが得をするからそう思うわけではない。
その方が、現実が変わる可能性があるからだ。


それでも、弱い人に、怒ったり、ずるいと思ったり、同情を迫る人たちは、卑怯な人間だし、抵抗できない相手から、感情労働を搾取する人に成り果ててしまうから、それはやめた方が良い。