問題のないパートナー
今までわたしは、問題のあるパートナーを選んで来た。
今のパートナーは、何も問題がない。
自立していて、お金に綺麗で、働き者だ。嘘をつかない。誠実で、思いやりがある。
常識もある。食べたお皿は洗う。買って来たものでも、お皿によそう。荒れたところが何もないひとだ。
身だしなみも自分で整える。綺麗な歯をしている。
自己評価が低いと、問題のあるパートナーを選んでしまうらしい。
欠点には目をつぶって、こんなわたしには、この人しかいないと思い込むには、確かに自己評価の高さは邪魔になりそうだ。惨めな目に遭えば、悲しい一方で自分の居場所のように落ち着く。
嵐に巻き込まれていれば、自分の内面には向き合わずに済むからだ。
いつも、誰かのせいにしていられる。
苦しいことが外からやってくると、思っていられる。
病的な一体感の中で、お互いがお互いを必要とし、必要とされている、という幻想に浸っていられる。自我が解け合うような異様な関係。過剰な世話焼きに、時間は取られ、精神はすり減る。自分も、相手も、お互いに侵入的な世話焼きをする。そうして、お互いの領域を侵略する。
それは、私生活も、将来の展望も、自分の時間も、すべて破壊する。
奪われる。奪ってしまう。
どんなに尽くしても、見返りはない。
お互いに誠実ではないから。誠実ならば、お互いの人生を尊重する。
そうではない。自分勝手に過ごして、自分の思い通りにならなかったら、機嫌を悪くする、子どものような関係。
それは、対等じゃなかった。
わたしは、自分と似た相手を選んでいた。きちんと。
本当は、わたしの中には呪いがあって、その呪いを解かないといけなかった。
わたしは良い年だが、問題のないパートナーとつきあっても、居心地が悪くならなくなったのは、自分の自己評価が上がったからなんだろう。
呪いを解くには、お金も手間もかかった。怠け者だと思っていた自分が、かけもちで働くほど、働き者だとも知った。たしかに、働きすぎると眠くなってしまうけれど、お昼寝をすればいい。そういう工夫ができるようになったことが大きな成長といえるだろう。
ふりふりの服を着て、足を出しても、太っても、今のパートナーはにこにこしている。それで良いと言う。おかしな髪型にしても、気に入っているならいいんじゃない、と言ってくれる。
本当に良い人だ。食べるものに困らないように、お土産はいつも食べ物だ。健やかな感じがする。
わたしは昔病的な人に惹かれた。惹かれた、というか、引かれた。そして、搾取されていた。わたしも搾取していたんじゃなかろうか。わたしは、なにもせず、ニコニコと笑って、それだけを求められているような気がしていた。相手が愛していると言う自分は、自分ではない気がしていた、自分で自分の人生を歩んでいる感じがしなかった。
いつでも、体の周りに膜があって、それを通して感じていて、視点が、頭の三十センチくらい上にあって、音がぐわんぐわんと歪んで聞こえていたから、いつも疲れていた。だから、そんな風にしていたから、危険な目にもたくさんあった。
今は、はっきりしている。躁状態になっても、欲しいものを買って、自分に使っているのは、呪いを解く作業になっていると思う。こんなにも、切羽詰まった気持ちで、何か欲しいと思わなくて済むなら、もっといいのだけれど。
わたしは、欲しいもののお化けだ。
本当に必要なもののお金をとっておけていない。その分稼げば良いと甘く考えていて、計画性がまるでない。
わたしは呪いと、呪いを解くための行動と、新しい落ち着いた生活の狭間で、引き裂かれている。
ペースダウンして、問題のないパートナーにふさわしい、落ち着いた人間になりたい。
わたしは、彼を選べたのだから、昔よりもずっと生きやすく、自己肯定感が高い人間になったのだと思う。お互い依存せず、相手のことを尊重して、会いたいと願える関係になっている。
問題のないパートナーを選べるようになったことを、まずは喜びたい。