発達障害は楽しいこともある…
わたしは、障害の告知で悩むということがわからない。
障害の有無で傷つく、ってこともよくわからない。(傷つく人もいるようだ。そうでない人もいるようだ)
わたしは障害当事者初心者なのだ。
だから、告知されて、なんで傷つくのかもなんで泣くのかもわたしにはわからない。
本人の振る舞いで親御さんや周りを傷つけることがあって、それで、親御さんや周りが泣くのはよくわかるし、傷つけたりもするだろうし、それは現実だと思う。(でも逆もあると思う)
でも、診断が人を泣かすことはないだろう、と思った。
発達障害は人が泣くようなことでしょうか。
わたしは、告知されないと、本も読めないし、調べられないから不便だと思う。傷つくのは発達障害のことを特別に思いすぎてるからだと思う。発達障害は普通のことだから傷つくようなことでもないと思う。けど、わたしにはわからないこともあるんだろうな、子育てしたことがないから、親のつらさはわたしにはわからない。だけど、当事者としては、診断に傷つくかもしれない、って親の立場の人が言うのにはびっくりした。だって、どういう思考経路でそうなるのか、わたしにはわからない。
脳が違うってこと?大多数と違うってこと?それで傷つく人もいるか…。そうなのか…。
そういう可能性についてあまり考えたことがないから、わたしはびっくりした。
わたし自身は、発達障害って名前は、単なるハンドルで、自分が生活しやすくするための、道しるべだと思ってる。発達障害の特性があるって事実は、診断がつこうとつくまいと、変わらないから。発達障害が、欠陥だ、ってことで考える考え方もあるだろうし、そうじゃない、って考え方もあるだろうし。でも、欠陥だとしても、欠陥のないひとっていないから(眉目秀麗頭脳明晰、五体満足、コミュニケーション抜群、誰からも愛される人なんていない)、発達障害が欠陥だろうとそうでなかろうと、現象は変わらないから、別に良いと思う。
もっと早くから知っていたら、もっと便利だったなあ、と強く思い、気づかなかった周囲を恨むこともあるけれど、でも、結果的に、発達障害だったから、回避できたこともたくさんあるなあ、と思う。
発達障害の診断で、なんでそんなに深刻になるのかさっぱりわからない。診断前と診断後で、その人の性質がまるっきりかわったわけじゃないのに。むしろ、前進したのに。
(いろいろなツイートを読んで、自己肯定感が少ない場合は、ダメージを受ける場合があると知りました。わたしは失業してからトラブルがあって入院していて社会復帰ダメだと思っていたんだから、自己肯定感は低かったと思うんだけど、あれは先生の告知が良かったからだったんですね)
発達障害は発達障害であって、たんなる性質だから、悪いも良いもない。ただの性質そのまんまだ。
それが、大多数とずれているから、うまくいかないだけであって、発達障害が大多数だったら、当事者は全然困らない。
わたしは、定型の人が、発達障害の人は思いやりがないとか共感性がないとか、いうのはおかしいと思っている。定型の人が発達障害の人のことがわからないだけであって、発達障害の人同士では、共感もあるし、思いやりもあるし、全然困らない。とてもスムーズにいく。
性質が違うもの同士が、うまくいかないのは、当たり前だから、努力しようって話なんだけど、その努力するのがいつも少数派だから、多数派は、自分の身内が、少数派になったときに「かわいそう」って反射的に思うんだろうし、少数派と関わらないといけないのを悲しがったり、不幸だと思ったり、手間だと思ったりしているんだと思う。
わたしの場合は、発達障害の人とはうまくやっている場合も多いし、結構楽しく暮らしている。
発達障害は楽しいんだ。
発達障害があるから、病院で、革細工作ったり手芸をしたりもできたし、セラピーで知り合った人と、異世界を覗いたりもできるし、お医者さんと毎月話すのも楽しい。自分の変化をブログに記録するのも楽しいし、毎日が冒険のようで、退屈しない。疲れますが。
わたしを愛してくれる人もたくさんいて、無邪気だとか、裏表がないところが良いと言ってもらってる。
大人になってから、無邪気で人を信じやすくいるのは難しいと思うのだけど、わたしは障害特性上、そういう意味ではいつまでも子どものままだ。そういうところを、良いと思ってくれる人は少数だけどいるから、楽しく暮らせる。
健常者でも、人生がうまくいかなかったり、楽しくない人はいっぱいいるので、発達障害だから不幸、ってのはおかしいと思うし、思い込みだと思う。仕事に就けない人も定型だってたくさんいるし。発達障害だからってだけじゃない要因ってたくさんあるから、そこにそこまで思わなくて、ただ、受け入れれば良い話だと思う。
(↑これは発達障害当事者に向けている言葉です)
親御さんにしてみたら、死ぬほど育てにくいんだよ、って思うのかもしれないから、そこは「そうかもしれません」って思うしかないのだけど。
わたしは育てたことがないから、そこについては何も言えない。
(わたしは死ぬほど育てにくい子どもだったと自覚しています。自覚しているからなんだって話なんだけど)
ただ、多数派から落ちこぼれた、ってイメージは実際あるんだと思うけど、そのイメージを持っている本人が、むしろ生きづらいのであって、少数派になった側に、それを投影されても困るっていうか。
そんなこといっても、できないんだから、最初から選択肢にないから楽って考え方もあるし。
そりゃー同調圧力の強い、多数派の世界で生きるのは大変だと思うけど、それから違う世界に行くともっと怖いと思っている人は不自由だなと思う。
少数派の世界でも、多数派と同じようなことは起きるけれど、でも、いろんな人がいるから、ちょっとの気の合う人を見つけられたら楽しい、ってのは定型、発達障害、と区別できない同じことなんだと思う。
わたしは傷ついたと思ったのは、発達障害の楽しさとか、充実感とか、そういうのないことにして、本人が知ったら傷つくだろう、ってのを前提にしているのが、なんか、いやだった。
四歳の時点で、できていないことがあっても、大人になってからでも療育はできるし、そりゃー大人になってからは失われた時間が多かったなあと思ったこともあるけど、今は楽しいから、まあ、いいか、と思えるときもある(当然、つらかったから思えないときの方が多いけど、そりゃあ)。
人と同じが正しい、正義、って価値観から外れるきっかけがあったほうが、生きやすくなると思う。
そういう意味では、発達障害だとわかるのは、とても良い。定型でも難しいことができるわけないから、やめた、ってわたしは思えたから。
多数派と違うからいじめようという価値観からも逃れられたし。
発達障害だからと言って、できないことが増えるわけじゃないし、仕事も、就ける場合もあるし、だから、そんなに考えすぎなくてもいいんじゃないの、なんとかなるよ、楽しいよ、ってなった。
内省的な生き方をするのは、たぶん、発達障害の特性のせいもあるのだけど、そこで困ったことはない。
定型の人と違う部分もいっぱいあると思うし、人を戸惑わせることもあるけど、わたしも人に戸惑わされることも多いので、とんとんだと思っています。
発達障害の関係者じゃなくても、発達障害のはの字も知らない人でも、味方になってくれる人はたくさんいる。
発達障害の関係者でも、味方にならない人はたくさんいる。
接し方で、態度が変わるのは当たり前だけど、その中で敵に変わってしまう人は、最初から味方じゃない、ってわたしは思っている。
発達障害の自分の子どもに寄り添うってことと「他人の」発達障害の人に寄り添うってのは、全く別の話しだし、わたしのように、性格が悪いのもいる。でも、性格が悪いわたしにも味方はいるから、世の中捨てたもんじゃないと思うんだ。
わたしは療育は必要だと思う。療育、というのは、子ども時代に終わるものじゃなくて、一生続くものだから、大人になってもする。そういう意味で、わたしたちは一生療育が必要だ。一生育つ。
逆に言うと、大人になってからでも療育は間に合うので、親御さんは追いつめられないでほしいと思う。
確かに、苦しい期間は少ない方が良い。でも、慌てなくても、他の人と足並みがそろわなくても大丈夫だ。
療育は、伸びていない部分の能力を伸ばすことができる。わたしたちの脳は、定型の人のように成長ない。だから、療育が必要だが、年をとっても、わたしたちは学び、能力を伸ばすことができる。
他に、療育を受けると良いことは、大多数のルールを知ることができることだ。知らないまま生活することは、不便だ。
ルールを知らないと、迫害される。ルールに沿っていたら、いじめられないですむことも、ルールに沿わないといじめられるし、ルールを知っていないと、出し抜くこともできない。ルールに沿わないで生きている自覚がないと、人に聞くこともできないから。ルールを利用できるようになるのが、わたしの最近の野望だ。ルールに合わせるのはもともと好きじゃないので、ルールの外で楽しくやるために、ルールが強い場所を避けたいと思っている。そのために、わたしはルールを学ぶ。
わたしの場合は、過去の経験を引くと、勉強できれば何も言われないルールがわかったときに、そのルールに則り、学生時代は過ごせた。高校は自由な進学校に行って、自分の可能性といじめられなさが確保されて、特性の多様な人と過ごせて良かった。進学校には案外発達障害気味の人が多かった。精神疾患のある生徒も多かったので、精神科に通うことをオープンにしている人も少なくなかった。だから、とても良い環境だった。
社会に出るときに、「共感性」の高い人が喜ばれる、というルールがわからなくて、苦戦した。知っていたら、もう少し、うまく演じられた。でも、知らなかったおかげで、今は共感性が強くなくても勤まる仕事に就けているから結果オーラ胃でもある。
それと、経歴が普通の人が良い、若い人が良いルールもわかってなかった。
ルールの違いに適応できなかったことが苦しかった。
でも、今はルールがわかるので、嘘も適宜つける。言葉を言葉通りに受け取って「牛乳飲む?」「飲んでも良いんですか?」「飲まなくても良いんですか?」という会話をしてしまうわたしだが、こういう時には、イエスの意味で言っているということも近頃学んだ。
細かいシチュエーションも覚えていける。わたしはパターンで、状況を覚えて、台詞を言うようにしている。
わたしは母と境界線が確立していない、という問題も抱えていて、苦しいのだが、それでも、母から離脱できたのは、発達障害のおかげだと思っている。
侵害を許せたのも発達障害の特性だと思っているけれど(いやなことにノーと言えない)、ある程度無理になったら、体全体でもう無理だから逃げる一択、が瞬時にできたのは、特性のせいかなと思う。
人間って、すごく可能性があって、わたしの場合は、最悪だと思う出来事があったり、暴行を受けた後も、ちゃんと回復して、あのとき以上にいろいろなことが見えるようになったのも良かった。被害を受けない方が良いけど、被害を受けても、わたしは何も変わっていない、と心底思えている。
人間は強い、弱いところもあるけど、強いところもある、って思う。
精神疾患があると、弱者と思われやすいですが、疾患と向き合う強さがあるって、考え方もある。
精神疾患と向き合えない人は、「野に放たれた人」ってわたしは言うのだけど、案外たくさんいて、そういう人は、自分の病気があったとしても向き合えていない。そう言う人が「健常者」「定型」と言われたりしているから、不思議なものだとも思う。
病気をやるのには根気もいるし根性もいるし覚悟もいる。だから、病気の人には誇りを持って、病気をしてほしいと思う。命がけで、戦っているのはとてもすごいことだ。
それに、ひっかかるような、人生を邪魔するような、なにかあるほうが、自分自身と向き合って生きられるから、良いことも多い。流されて、自分がそうしたいと思っていなかったのに、そうなってしまった、と言うことに対して、善かれ悪しかれ、ピリオドが打てるから。
自分の人生を生きるチャンスができる。周りが言うから就職して、周りが言うから結婚して、老後、自分が何のために、生きていて、何のために、死ぬのかわからないという風に、黄昏れずに済む。それは大きなメリットだ。そうなる以前に、逐一考えざるを得ないから。
生きるということは、苦しいことだ。その合間に、少し、息継ぎみたいに、楽しいことがある。自分を生きていると、苦しいことも、乗り越えようと思えるパワーがどこかしら湧きます。自分を生きていないと、苦しいことはただ苦しいだけで、乗り越えるパワーが湧いてきません。これは理屈じゃなくて、感情的な、荒々しい現象だ。
自分を生きていると、悪いことも嬉しい、楽しいことも、自分のこととして生々しく感じられる。
病気の結果、生々しく感じられるってわけじゃなくて、病気の結果、自分と向き合うチャンスを得て、それから、自分を生きるようにすると、楽しいことも、苦しいことも、生々しく感じて、生きていると思えるようになる。
それは、精神疾患のチャンスです。精神疾患の苦しみは、わたしも人間なので、人並みに感じているが、でも、精神疾患があること自体には感謝している。
精神疾患がなければ、転職もせず、今の仕事に就かないで、前職を渋々続けていたと思う。
自分が変わっている、と思い始めたとき、自意識過剰だ、と言ってくるひともいて、でも、変わってないと言うと、変わっている人ほどそう言う、と言われて、自分でもどちらなのか、わからなかったときもあるけれど、診断がついて、納得した上で、わたしはわたし、と思えるようになって、息を吸えるようになったのは、かけがえのない思い出だ。
親から与えられたのではなくて、自分で長い旅のあげく、獲得した診断だったから、よけい嬉しかったんだ。(わたしはそのとき、発達障害を知らなかったので、びっくりした)
だから、苦しみの時間を長引かせた、と思う必要は全然なくて、ふさわしいときが必ずあると思う。
どちらにしても、正解だ。遅くても、早くても、正解だと思う。わたしは診断が遅かったせいで、診断を受容できたんだとも思う。
だから、私の意図は、親御さんには、悩まないでほしいということ。
失敗したとか、思わないでほしいと思います。適当にやっていても、子どもに恨まれることはあるかもしれないけど、そんなに悪いことにはならない、と思ってほしい。
わたしは育てられるのに向かない子どもだったし、母も子育てに向かない母でした。そんな組み合わせでも、二人ともまだ存命なので、意外と捨てたものじゃないと思ってほしい。
その意図でこの段落は書いた。
勇気を持って、とりくめば、何事も怖くはない。
飛び込んでしまえば、それが通常になる。
自分の思う通りにはならないかもしれないけれど、思った以上のことにはなる。
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最後に
この記事を最初に書いたときに、ツイートを引用された方から、連絡があって、記事を削除していました。
理解が及ばなかったのは、わたしの悪かったところだし、人を傷つけてしまったのもわたしの悪かったことだと思います。引用ツイートの意図した内容と違った文章の内容を書いてしまったそうです。
わたしにはわからない部分もありましたが、わからない、ってこと、それ自体も悪いのだと思いました。
でも、削除自体は、わたしの自由であって、引用も正しい形式でやったから、削除をしたのはわたしの好意です。
謝罪して、削除したけれども、削除要請は来ていませんでした。削除要請が来ていなかったのに、「削除要請をした結果削除してもらった」のようなことを書いている方がいて、わたしは驚きました。
わたしは悪かったと思います。昨日、混乱と落ち込みの中で一生懸命できることを考えました。何度もリプライを読みました。でも、謝罪した後、下げた頭の上から、さらにひどいことを言われたのは別の話だと思っています。それは、マナー違反です。マナー違反はひどいことです。
だから、形を変えて、再エントリしたいと思います。
あと、欠陥についての考え方が変わったので、それも文章中に入れていきます。
謝ったのに、ひどいことを言われたのは、わたしが最初にしたこともあるから、わたしは我慢します。
だけど、形を変えて、再エントリしようと思いました。
いくつかのエントリで書きましたが、わたしは、障害を知ったのが二年前だと言うこともあって、障害を知っている人自体の数が世界で五人しかいません。おそらく、診断名自体で、いやな目にあったことはありません。だから、ツイッター上で書かれているように、障害の診断のせいでいやな目にあったから、わたしの偏見を投影して書いている、というのは誤解です。
そういう誤解もあるので、再エントリには意味があるかな、と思って、構成を変えたり、文章を付け加えたりして、文章をもう一回発表します。
発達障害、そして、告知、というのがテーマです。療育もテーマかもしれません。
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書き換えた話