c71の一日

生活の記録

つよい、よわい

強い人というのは存在しないと思う。


強い部分がある人、弱い部分がある人がいるのだと思う。
場面によって、強い弱いが浮かび上がる。


弱い部分を自分で認める強さがある人もいるのだ、と思う。強さといえばそれくらいだ。
弱さと向き合う人は強い。
だけど、その人が他人に優しいとは限らない。
優しい人が強いとは限らない。弱いとも限らない。不思議だ。
他人に甘えるきっかけとして、優しくしてみせる人もいるし、甘えさせる優しさもあるし、他人を甘えさせない優しさもある。


モザイク模様のように弱さと強さが入り交じっていて、自分が強さだと把握していることが、ウィークポイントになることも多い。
例えば、自分のことを頭がいいと思っている人がいたとしたら、そこを責められてだまされる場合があるように。



弱い人が失礼なことをしても、わたしは許す気がない。
なぜなら、それを許してしまえば、めそめそしている方が得だからだ。
わたしはめそめそしていたくない。
めそめそしていても、だれもなにもしてくれない。
めそめそしながら、誰かがやってくるのをいつまでも待つほど、わたしは、優しくない。
神様は来ない。ずっと来ない。来てほしい間は来ない。
わたしは自分が変わっていくことを良いことだと思う。自分の痛みと向き合うことを是とする。向き合えば、迂回する方法も見つかるけれど、ないことにしてしまえば、いつまでも痛みは体の中にいる。



ずたずたになりながら、助けを待った。助けは来なかった。助けを求めてさまよったら、助けられた。だから、わたしは待たない。声を上げながら、助けを呼ばなければ、誰も存在に気づかない。自分が黙っていても助けられると思うのは傲慢なのだ。
傲慢さは悪いことではないけれど、痛みを救えない。



ずたずたになりながら、やっとの思いで、水面に頭を突き出したら、強いと言われた。わたしは強いと言われるために、痛みを蹴り飛ばしたのか?
痛みとともに沈んでいく人を助けにいく余力があるのか?
浮かび上がる気もない人、悩むことが好きな人、困ることで時間をつぶすのが楽しい人を、助ける時間があるのか?
わたしは自分の体を持ち上げるだけで精一杯だ。すぐにも溺れ死んでしまう。


人を助けると良い気分になる。それは娯楽だ。
人から傷つけられるといやな気持ちになる。それはゲームだ。


わたしは人の言うことを鵜呑みにしてしまう。
そういう性質を持っている。



わたしは課題をクリアして来た。生き残って来た。余力はいつだってない。できなかったら、苦しむ時間が長いだけ。わたしは苦しみたくない。
わたしは強くない。弱くない。
わたしのことはわたしが決める。わたしのことを計ることができるのはわたしだけだ。