c71の一日

生活の記録

惨めを捨てる

外出していて意味もなく惨めだなあと思うことが良くあった。


その原因がなかなかわからなかったのだけれど、その理由に似合わない、古くさい、ださい、カッコウをしていたからだということがわかった。


それは、三月に、プロにコーディネートしてもらった服で外出していると、体調が悪くても、人前に出さえすれば、自信を持ち、明るく振る舞えるのに、対して、自分で選んで十年くらい着ている服を着ていると、頭も痛くなるし、その場から消えたくなるし、正しいことを言っていても、自信がなくて取り消したくなることからわかった。


無難だと思っているのに、サイズや形が合わなくて似合わなかったり、布が可愛いと思っていたのに、シルエットが合わなかったりする服というものがある。



わたしはそういうことに気がつかなくて、なんとなく「可愛いけれど、着にくい」とぼんやり感じていた。

ぼんやり思う程度だから、服が自分の精神に及ぼす影響もあまりわかっておらず、外出するときに服を決めることにもいつも悩んでいた。そのせいで、外出できないこともあった。どうでもよくなって、どうでも良い服を着て、惨めになることも多々あった。服を買ってもすぐ飽きてしまう、ということもあった。



自分の性格にぴったりした、コーディネートを経験して、そうじゃないものとぴったりのものが区別できるようになった。
そうしたら、今まで保有していた大量の古着がいやになっていた。家の中にあると思うだけでイライラした。
邪魔だと思った。でも、コートなどの大物はなかなか捨てる決心がつかなかった。


「まだ、着られる」とコートが主張している気がした。



そこで、わたしは、社会性がない行動をとった。


人に送りつけたのである。


……テロだ。ごめんなさい。



でも、そのときは、かわいいと思って送ったんだよ、まだ、着られるし、でも、わたしには似合わないと思って。



友人たちは優しいから気に入らなかったら、そっと捨ててくれるだろう。わたしの代わりに。もしくは一回くらい着てくれるかもしれない。今はそういう祈る気持ちでいる。



一回やってみて、今度は、自分で捨てようと思った。あまりにも迷惑すぎる手法だ。
ほしがってくれたら良いのだけど。
(友人はサイズが合わなかったけどc71の気が晴れたみたいで良かったし、もらって嬉しいものも入っていたから大丈夫と言ってくれた)


難点はあるにしても、人を頼るのはいい方法だ。送るのはちょっとどうかなと思うけど(でも着てくれる可能性もあるし)、他の方法で頼るのは良いことだ。
(そして、段ボール三箱分の洋服を洗って干して畳んで詰めたのは、わたしにしては、すごい成長だ。宛名書きだって昔だったら、苦痛でできなかっただろう。詰めてからだって、それを発想するのに何ヶ月だってかかっただろう。今は、躁状態であるというのもあるけれど、でも、できた。そのことをまず、寿ぎたい)


そして、今度からブランドものを買おうと思った。
福袋で買ったブランドものの服を混ぜて送ったので、罪悪感が少なかった。
処分するとき、ブランドものの方が、人にもらってもらえるか聞きやすいし、捨てるときもむしろあきらめがつく。
着心地が良いから、たくさん着るし、デザインも良い。
たくさん着ても、あまり、傷んだ感じにならないものも多い。繊細な服は、傷むけれど、繊細な服はそれはそれで美しい。
メルカリというアプリで、ブランドものの古着を買っているのだが、やっぱり、着心地が良い。
ネットショッピングは、家にいながら、買い物ができ、憧れていたブランドの服が古着で手に入るのでとても楽しい。


今は躁状態なので、お金を使いたい時期だ。これは、自分でコントロールできない。
睡眠時間も細切れで、夜11時に寝て、午前1時に目が覚めてしまう。それから、夜中起きているので、やることがなく、つい、ネットショッピングをしてしまう。
前は、過食をしていたので、少なくとも、からだへの負担が減ったと思って自分を慰めている。
やってはいけないとわかっているのに、人はどうして自分を止められないんだろうか。
本当は、やめたい気持ちもある。でも、やめられない。


買い物をしたら、幸せになると信じている。それが消せないのと、今、手に入れないと、困る、と強迫観念があって、焦っている。ヤフーオークションは危険だった。値段がつり上がっていくので、そのプロセスに興奮して、それほど欲しくないものでも落札したくなったのだ。負けたくない、という一心で。


眠れないことと、服装と、ダイエットが、今の私の関心の中心だ。


そして、今は家の中の片付けにはまっている。

さっきも書いたように、着ない服を探すのが楽しい。これも、着ないかもしれないと、こつこつ探して、あ、これもいらない、と発見すると気分が上がる。だんだんゲームみたいになっている。


わたしは片付けが下手なので、自分でコントロールできるものの量を所有しているべきだ。
今は、ヘルパーさんが来て、片付けをしてくれる。それで、わたしも見て覚えて、学習して、だいぶ成長した。
片付けは、ものの居場所を決めることと、使ったらもとに戻すこと、床に物を置かないことが大事だということがわかった。
しかし、ものが多すぎると、ものの居場所がなくなってしまう。だから、使いかけだったとしても、使わなくなったものは、さっさと捨てないと、ものの居場所がなくなってしまうのだった。



洋服のコーディネートをしてものと、自分にとって必要なものとそうでないものがあると、気づかせてもらったのは収穫だった。必要ではないものを持っていると、だんだん惨めな気分になってくる。エネルギーを吸い取られるのだ。
嫌いなものを見ていると、だんだん、心が惨めになる。


嫌いでも、便利だと思って買ったのだが、嫌いなものは、嫌いだから、便利でも使わない。



そういうことがわかった。
便利かどうか、必要かどうかで考えるよりも、好きか嫌いかで一度家の中を整理して、物がなくなって、不便になって、それから、何が必要か考える方が良いんじゃないかと思った。


不要品を捨てると気分が上がる。惨めな気持ちが捨てられる。不要品に囲まれて、狭いスペースで生活していると、気分まで惨めになるのだ。
わたしはそのことを知らなかった。でも、今は知っている。
自分の家を快適にしたい。洋服でこんなに楽しくなるのなら、インテリアも凝ってみたい。
そうしたら、だんだん、楽しい気持ちが増える。
病気が治らなくても、鬱や躁状態の変化が収まらなくても、おおむね楽しい、という状態で暮らしたいから、工夫したい。



最近は、部屋着も、着心地が良くて、色合いが華やかで可愛いものを着ている。ちょっとした外出もできるから、すぐ外に出られる。外に出ることが気軽になったおかげで、性格も明るくなった。
ちょっとしたアドバイスで、着心地が良くて、楽でいられて、からだを締め付けなくても、すっきりして見える洋服選びを教えてもらえたから、そのせいで、部屋着も素敵でいられる。


おしゃれなんて、意味がないと思っていたり、今更遅いと思っていたけれど、体調や気分に関係するから、服は買うときから、綺麗なものや好きなものを選ぼうと思った。
カラーデザインも教えてもらったから、色選びでも失敗しなくなった。
夏の色の服のものを買えば、どんなにでたらめに上下を組み合わせても変にならないから、気がらくだ。
色をたくさん使った洋服でも、彩度と明度があっていたら、すっきりして見える。華やかに見えて、貧乏くさくならない。

そんなことも、教えてもらえて、わかって、よかった。
無難だから、とか、面白いから、とか、そういう理由で買うときに、洋服を選ばないようにしようと思った。



だから、捨てるときには、明度と彩度が合わない服も捨てるし、シルエットや着心地が合わない服も捨てる。
まだ、着られても、わたしは捨てる。
わたしはもう惨めなのはごめんだ。



捨てることに慣れたら、だんだん買わなくなるかもしれない。


過食をやめつつあるように、散財もやめられるようになるかもしれない。
今はお菓子を見ても、素通りするし、友だちが目の前で甘いものを食べていても、欲しくならない。
自分のペースでいられる。焦らない。合わせないでいられる。
だから、ダイエットを始めてから、気持ちが落ち着いて、幸せになってきた。まだ、体重は少ししか減っていないけれど、ダイエットがつらいものじゃなくて、楽しいものになった。



ものを整理して処分することと、ダイエットすることは同じ精神だと感じる。
ダイエットがつらいものだと思っている間は、なかなか難しいけれど、楽しくなったら、続けられる。
ものを整理することも、楽しくなってきた。だから、今度は、散財も少しずつコントロールできるようになり、部屋も掃除したり片付けしたりできるようになると良い。
そういう希望が出て来て嬉しい。
躁状態だから、つらいし、体調も悪いけれど、良いこともあると信じたい。