c71の一日

生活の記録

援助と取引

親からもらったものが重たい、という気持ちになる人は多いと思います。
気持ちが重くなる人、限定で話しますが、なかなか捨てづらかったり、場所塞ぎになったりするから気持ちが重くなるんだろうとまでたどり着けた人は幸運です。そうしたら、捨てられますものね。
物をもらうことによって、相手に、何かを交換して渡しているんだと思っています。
それは、自尊感情じゃないかなと思っています。
親は、いつまでも子どものままでいてほしいと思っていると思います。
コントロールしたい気持ちが少しでも親の側にある場合、プレゼントをもらった側からは、自尊感情が報酬としてもっていかれます。


だから、疲れるのだと思っています。


軽蔑されたときに、無視せず、抗議すると、自尊心が減らずに済みます。その、軽蔑された自分を受け入れなくて済むからです。


援助されることは、たいへんなことです。
援助される前提の状況にいること自体が負担なのに、援助される、という事実から発生する「期待」や「感謝」も負担になります。


だから、援助されるときには、人は慎重になります。
しかし、その慎重さを理解されない場もままあるのです。
困っているなら支援を受ければ良いと。

でも、ことはそう簡単ではありません。
困っているからこそ、支援を受けたくないのです。
感謝以上のものを要求されるのではないかと恐ろしいのです。
心の大事な部分を踏み荒らされることが心配なのです。

もらったものを捨てられない、とか、いつまでも縛られている気持ちになる、とか、惨めな気持ちになる、とか、があります。


それと同じにしては問題かもしれませんが、親から支援を受ける自分を受け入れると、自立できない自分を受け入れないといけなくなります。


でも、じゃあ、支援は悪いことなんでしょうか?



誰でも健康保険や、年金、税金の控除など社会制度は使っていると思います。
これだって、支援です。社会からの。でも、これらの制度を使っているからと言って自立していないと言う人はいませんよね。
(社会援助も、親の援助も援助は援助ですから)


大学を出てその学歴を評価され、良い仕事に就けた人も、今は自立していても、その自立は、成人してからも親の支援を受けたから、その環境を得られたわけですよね。


そういうわけで、真の自立を突き詰めて考えていくと、親から支援されているから、「自立していない」と悩むのは口惜しいことです。


最近、プレゼントや、不要品を受け渡す機会に恵まれました。あげるまで、ドキドキしていました。
受け取ったとか、ありがとうとか、言われたらすごくほっとしました。嬉しかったです。
渡した時点で、完結していたいと思いましたが、やはり、嬉しかったのです。
そこには、全く、コントロールしたいという気持ちがなかったかというと、嘘になります。相手を喜ばせたい、という意味でのコントロール欲があったわけです。
でも、これを絶対に否定しないといけない感覚だとも思えなかったのです。


親もきっと、そうなのだと思います。


だから、もらったときの、感謝だけで、交換は完成していると考えるのが妥当です。
プレゼントを上げたい気持ちに対して、その瞬間の感謝だけで、交換は完結しています。それ以上のことを求めるのは、お互いに、泥棒です。あとから債務が増えることはあってはなりません。


ものを上げたから、これくらいのことはあっても良いはずだ、良くしてくれるはずだ、と思うことは、貧しい気持ちです。
本来、プレゼントは貧しさと離れた行為です。してほしいことがあれば、それを頼むべきで、暗黙の了解の上で、察してほしいと要求されても、応える義務はありません。
応えなくては、と自分を追いつめることで、自分の健康を害している人は多いようです。


援助は取引ではありません。
支援を受けたからと言って引け目を受けることもなく、いつまでも、感謝しなくてはいけない、ということもありません。すべては一度、終わります。それでもなお、続ける気持ちが自然とあるときにだけ、そうすれば良いと思います。
援助は取引ではありません。
厚意を受けたら。そのときに感謝して、失われた自尊心は、他に困っている人に対して、なにか良いことをしてから、補給し、そして、それ以上のことは、求めないように自制することが大事だと思います。


支援する側としては、自分が嬉しい気持ちにさせてもらったこと以上のことを、求めてはいけないと、自戒したいと思います。