c71の一日

生活の記録

国家&男性の暴力で解決したがるところに対抗しうるのはユーモアだ!


画像には「ちょっと過激な発言をすると、男が逆上して冤罪かました女を殺害する様な事件が起きたらこういう冤罪は減るかもね」と書いてある。
(冤罪被害を被害者のせいにするのは、認知がおかしいという話はまた別のときにするはず)



以前書いたエントリのいくつかで、国家は「暴力をほのめかすことによって、女性を怯えさせ、そこから守ることを約束して、女をコントロールする」仕組みを持つと書きました。
だから、上記のツイートの画像のコメントは不思議なものでもなんでもなくて、むしろ、国家の思惑にきっちりはまって、女を怯えさす、という役に立っているわけです。
こういう人がいないと、「守る」という機能を果たせないですからね。
「守る」という大義名分がないと、女性をなにと引き換えに獲得すれば良いんですか!c71.hatenablog.com
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というわけなので、男性の場合は、人権感覚がなければ「悪者」の役として、国家の役に立てるのです。だから、そういう男性を、国家は特に罰しない。国家、という言い方が悪ければ、世間はそれほど彼をバッシングしませんね。
反社会的な男性は、反制度的ではないんです。今作った言葉だから、適切な言葉を思いついたら、また書きますけど。
反社会的であっても、反制度的ではない発言は、人の心を動揺させない。人って言うのは、男性だったり、伝統的性別役割分担に慣れて適応している人だったり、のことですけど。そうじゃない人は人扱いされない。そうじゃない人は、女性だったり、子どもだったり、その他マイノリティだったり。




それにひきかえ、ものを言う女性はバッシングされる例を見たければ、わたしを見れば良い!そうだ!わたしは別に反社会的なことも言っていないし、犯罪教唆なことをいっていないけど「主観的だから」「論理的じゃないから」とか、どうでも良い理由をつけられてミソジニーなコメントがついているよ。(主観的なのが悪いのかとか論理的じゃないのが悪いのかとか、そういうことは考えないのか、ふーん、そこについているのは帽子置き場か?)


わたしの場合は、反社会的ではないけど、反制度的なんだと思ってる。だから、人はわたしの文章を読むと動揺するんじゃないかしら。


どういうわけか、男性は、女性のことをすごーーーーーくバカにしているのに(過度に持ち上げる形だとしても、やっぱりバカにしてるんだよ)、そして、「愛の労働」にちっとも価値を置いていないらしいのに、どうしても、女性を獲得して、ケアワーク&性行為を「扶養」と交換したいらしいんですね。ケアワーク&性行為を労働とは決して表立っては認めないのに、でも、必要なことは必要らしい。賃金など、対価は払いたくないけど、支配によっては得たいらしい。

どういうわけなのだ!

男はバカな生き物なんだよ…、て自嘲しているところに「うん、ほんとにバカですね!」って言ったら怒るくせに!その一方で「俺たちには、とても、あんなことはできない。やっぱり、女らしさ、ってすごい」と称揚するくせに!


でも、女のことはバカにしたいらしい(c71がバカだからバカにされてるだけだ!というむきもあるかもしれないが、c71が女で男にとって気に障ることを書くから、そうする人が多いんじゃないかなと思うんだけどね。女はバカにされてないと思う人はいるのだろうか。いるかもしれないけど、幸運だ。
それに、わたし程度にバカな男ももちろんいるけど、同じ程度バカにされてるか、ていうとそうじゃないもんね)。


暴力がなければ、女を脅すことができず、女を脅せなければ、「扶養するからその代わりにシャドウワークしろよ」と交換を持ち出すこともできないのです。
そして、その交換が「家父長制」を担保しているので、その脅しがなりたたなかったら、国家の基礎が壊れます。
だから、少なくとも、日本の国家の基礎は、女への脅しによって成り立っているのです。

そのために、常に、暴力の犠牲になる女はいるし、その被害は限りなく陰惨にかかれ、被害者の瑕疵は強調される。


守られない「悪い」女はこういう目に遭うんだよ、と常に言っていないと、ダメなのです。


というわけで、人権意識がない男がいたとして、それらの男が、男によって自浄作用として批判されることは、あまりないんだなーと思ったことと、やっぱり、国の制度として、「暴力」というのは必要とされていて、だから、それを発露されたとしても、とがめられることはほとんどないのだな、とよくわかるツイートだったな、と思いました。暴力自体がなくては、それから守ると宣言もできないからね。だから、守る、ていうひとも、暴力の存在を認めているとしたら、暴力に加担していることになるんだよね。個人的レベルではそうじゃないとしても、仕組みの中に組み込まれてしまっているから、それがいやだったら、批判するしかない。
そして、いやでも、簡単には国からは出て行けないし、出て行けば良いかって問題でもなく、いやでもいながら、言葉にしていくことは、やっぱり意味のあることで、それで、変わるかもしれないし、かわらないかもしれないけど、とりあえず、わたしは楽しいから、こういうことを書こうと思うのでした。

制度の中に組み込まれて、生活する。その中で、できることをしていく。
考えていく。
考えて、言葉にして、そうしていくうちに生まれる何かがあるかもしれない。
もちろん、ないかもしれないけど、ないならないで、それでいいじゃないか。
有効なこと、有益なことだけが素晴らしいと決まってはないんだから。
そういう価値観で、苦しめられるのはもうやめだ。それはやめ。
無益なことだって素晴らしいし、世界の豊かさの一部だ。


暴力に対抗するのは、わたしはやっぱり、こういう楽しさとか、面白い気持ち、幸福さ、だと思うので。(この文は楽しんで書いています)