c71の一日

生活の記録

搾取するやつって親切だよなあ

搾取したがって近づいてくる人はたいてい土産を持ってくる。土産ってのは比喩なんだけど、だいたい「親切にして上げるよ」「あなたのために尽くしますよ」みたいなことを標榜してくる。


だいたい良い顔をしてくる。
おかあさんとかも「おかあさん劇場」の観客としてわたしを必要としたから、わたしを病気にしつつ、わたしをケアしたし、その他の人々も、わたしをけがさせてそれを治す(比喩です)みたいなことをして、それで、わたしに「俺がいないとダメなんだよ」と思い込ませつつある人が多かったなあと思った。わたしはけっこうこの世にからだ目当ての人とかお金目当ての人が実在するとは思っていなかったから、すぐにああそうなの、親切にしてくれるのと思ってしまったり「つきあってくれないと死ぬ」と言われたりしたら、死ぬのか、死んでしまうのか、じゃあ、犠牲になってつきあうか…となったりした。


長期的には親切でもなんでもないのだけど、そういうことが人生の早期で起きすぎていたので、ちょっと、基準ががばがばになってしまったきらいはある。
でも、ひとつずつ、気がついて、修正しているので、幸せになるのは可能だと思う。



人のせいにすると良くない、と言う人はいるけれど、搾取はする人が一方的に悪いし、加害されたら、加害して来た相手のせいで、人生歪んだなあ、というのは、事実を正しく見ているわけで、そこで変に「自分のせいで加害されてしまいました…おはずかしい、わたしはバカです」というと、誰かに許してもらおうと媚びたりもするけれど、それは絶対に間違っている。正しく、誰かのせい、人のせい、加害者のせいにするしかない。
加害されるか、搾取されるかは、自分で選べないもの。通り魔のようなものだもの。



見る目があって、回避できたらそれは良いけれど、そうじゃないのは、仕方がない。それはおのおの磨くとして、だからといって、搾取されました、だから、バカです、人のせいにする大バカですなんていうことは言わなくていいと思う。


自分のせいにする方が簡単だ。だって、敵を作らないからね。
でも、他人のせいにして、加害があった、自分はその犠牲者になった、ということを認めるのはつらい、つらすぎる、だって踏みにじられたことを認めたらどうやって、生きていけば良いのさ、ってなる、だけど、その事実を認めないと、癒すことも治すことも回避することも出来ないじゃないか。
その出来事はあった、起きた、だから、つらいんだ、ってことを認める。
時間がかかるけれど。
そして、それを人のせいにしていたら、いつまでも自分の人生が切り開かれませんよねなんて誰にも言われたくないのだ。


搾取する人って、最初は必ずいいやつなんだから。