c71の一日

生活の記録

頭数になれなくても

わたしは、いわゆる「頭数」にはなれない。
それにはいろいろな理由があるけれど、個人的なことだから。


bcxxxさんは、明確にマジョリティを志向し、マジョリティによる運動を肯定して、マイノリティを切り捨てている。


男女差別に対しても、「そんなこと」よりも、今は共通の目的に走るべきだ、という意味のことを言う。
彼の言うことが総和ではないにしろ、彼は発言力があるようだから、そういう思いを持つ人も多いだろう。

その一方で、彼の言う言葉に違和感を感じている人も多いだろう。


効果的な反戦という言葉には違和感がある。反原発運動で、ないがしろにされたものに無批判だったせいで、それに加われなかった人たちが多く、そのため、運動はみんなのものではなくなってしまった。
反原発も、反戦も、とても大切なことだから、それはとても残念なことだ。


そもそも、「自民」というものが、マジョリティの象徴であって、最大のものだ。
マジョリティに対して、無批判でいたことが、戦争への道を招いた。
だから、マイノリティが日々抱いて来た違和感に耳を傾けていたら、ここまでには至らなかったはずだ、という思いがある。マジョリティの人たちは、以前からも今もマイノリティを軽んじている。


自分がマジョリティだと思うならば、マジョリティの代表である自民党政権が行っていることについて、自分の責任を語っても良いだろう。
世の中をマジョリティが変えるというのならば、今までの世の中を維持して来たのもマジョリティなのだ。
マジョリティが世の中を変えると自負するのならば、その反省を考えなくては。


わたしたちはマジョリティだ、マジョリティには数の力がある、マジョリティが世の中を変える、デモに来て、頭数になるべきだ、というならば、同じ法則で動いて、政権を得た自民となにもかわらないのではないか。
マジョリティに力があるのだとしたら、このような世の中にして来た責任もあるはずだ。
それを反省せずに、「マジョリティが世の中を変える」というのはおかしい。
マジョリティがこの世の中を作って来た、という自負はないのか。
言わせてもらえば、アベを選んだのは、マジョリティだ。
数も、権力もあるマジョリティたちだ。
今までの世界が心地よく、違和感がなかったから、現状維持を選んだ人たちが、選んだ結果だと思っている。
違和感を放置してきたから、事態が進行して来たのだと思っている。


こういう風に、過去のことを言うのは生産性がないのだろうか?
だけど、生産性がどうの、と考えること自体がすでに間違っていると思う。
そうではないものを大切にすることが、反戦につながるのだと思う。


そもそもマイノリティかどうかは、数で決まることじゃない。
発言力や尊重のされ具合、対等になれるかどうかで決まることだ。
権力のなさ具合による。

bcxxxさんのいうマジョリティになるためには、違和感を飲み込むのが前提になっているようだ。
そんなことよりも、今は共通の目標に向かうべきだと。


だけど、人類の半分は女性だから、女性の持つ問題を無視しては、その違和感を飲み込めたり、そもそも違和感を感じない女性しか加われない。


女性が女性らしくあることを「売りにすること」は、まず、ふたつの問題があって、「女性らしさ」を誰が規定するのか、それがなぜ「売り」になってしまうのか、がある。

誰かが「この人は女性らしい、女性の魅力にあふれている」とジャッジするということは、他の場面になったら、その人や、それ以外の女性を「女性の魅力がない」とジャッジすることになりかねない。
しかし、デモにおいて、女性の魅力というものは、そもそも必要なのか、という疑問がわく。
また、それを「売り」にするのは、それにひかれてくる人たちの性質を考えると、やはり、そこにも問題がある。デモは、人々の意思で集まるものなのに、女性の魅力にひかれて「頭数」になる人々は、なにか、問題を起こしそうな気がしてならない。その問題の矛先は、おそらく男性であるbcxxxさんには向かわず「魅力ある女性」に向かうだろうし、そして、その問題の解決能力は、運動体にないだろう。今でさえ、セクシズムにたいして無頓着で、何が問題なのか理解できない人たちだから、いざ何かが起こっても、対処することや、そもそも問題発生自体に気づけないだろう。



わたしは、はっきり自分のことをマイノリティだと思っている。

t.co
こういう風に、「圧倒的なマジョリティが」問題を解決していくと書かれる。
じゃあ、マイノリティは、何もせず、文句だけ言う存在なんだろうか?
マジョリティだけが世の中を動かしていくのだろうか?


いや、違う。

マイノリティにはマイノリティの戦い方がある。
マイノリティはマジョリティがなにも不自由を感じなかった故に、問題意識を持たなくて住む状況で暮らしている頃から、ずっと、違和感を持って、そのことを考え、発信し、自分たちなりに動いて来た歴史の蓄積がある。
その蓄積を無視して、マジョリティが世の中を動かし、マイノリティは座して見ていると、言わんとばかりの態度を取られる筋合いはないのだ。
そもそも、マジョリティが世の中を動かすことに対して、違和感があるのだから。
マジョリティという分厚い壁に、言葉を届かせようとし続けて来た、マイノリティには、力がある。
マイノリティは、たしかにいろいろな脆弱性や弱さがある。だけど、その中で鍛えて来たものがある。
わたしにもある。
わたしは、自分で言うのもおこがましいけれど、文章の発信力がある。
わたし自身が、体調不良などをおして、いわゆる「頭数」になるよりも、こうしてブログを書いていることになにか意味はあるだろう。
効率は大事じゃないけれど、bcxxxさんの価値観にのれば、そういうことになる。
わたしから見れば、マジョリティの人は、普段は日常に埋没して暮らしているのに、みんなが何かやり始めたとたん、同じ行動を取り出すから、少しびっくりする。
マイノリティの人は、自分の違和感を日々表明している。

表明というのは大切なことで、少しずつ世界を変える。
隣の人のことを変えられなくても、ディスプレイ越しの誰かの気持ちを楽にしたり、喜ばせたり、できる。
それは、戦争とは反対のベクトルの動きだ。
一人一人がバラバラのまま、連帯できるからだ。

みんなで何かする、連帯する、それは素晴らしいことなのだろう。だけど、それに排除がともなっていて、健康で、違和感を感じず、もしくは飲み込める人々だけを集めた反戦というのは、軍隊に似ているような直感があって、恐ろしい。わたしはその場に入れない。


わたしはマイノリティだ。
だけれども、だからこそ、磨かれて来た表現力がある。
いわゆる「頭数」になれたら、それは素晴らしいことなんだろう。効果的に、意思表示できるのだし、そういうことをする人たちには、最大のリスペクトを送りたい。わたしにはできないことだから。


でも、だから、bcxxxさんが、マジョリティを賛美し、頭数になれない「わたし」を「降りた」というのは、飲み込めない。
わたしは、デモにいけない。
だけど、わたしには、わたしのできることがある。
それは、bcxxxさんが「効果的」と考えているやり方とは違うかもしれない。
それでもやっぱり、わたしにもできることがあるのだ。
人々の悲しみに寄り添ったり、わたしの悲しみや憤りを開示すること。
そうしたことも、やはり、反戦なのだ。
それが、わたしの反戦。


デモにいろいろな事情があっていけない人たちが、自分を責めないで、自分を許してほしいと思う。
わたしたちは、行きたくても行けない事情を抱えている。
それは誰に恥ずべきことでもない。
わたしたちにできることは、限られているけれど、それでも心に反戦の灯火をともしていれば、いつか、なにか、自分なりの方法が見つかるはずだ、見つからないとしても、それで良い、とにかく生きていくこと、それ自体が、運動であって、戦いの一部なのだ。