c71の一日

生活の記録

社会の中心の運動/保守の世代交代/内輪もめについて

この運動の構造は、保守と保守との世代交代の戦いなのだなと分かった。


若い保守と、年老いた保守とのジェネレーションギャップ、既得権益と新しい権益の奪取の問題なのだと。
マイノリティとマジョリティの共闘はない。
マイノリティがマジョリティに立ち向かったのでもない。
社会の中心と社会の中心がぶつかっているのを、眺めているマイノリティがいて、そのマイノリティが、このままだとマジョリティとの違いそのものに殺されると思って、差異を言及しては「小さな差異」は気にせずワンイシューのもとに戦おうと誤摩化される。
誤摩化されると言うか、マイノリティはそもそもお呼びではなかった。だから、マイノリティの提言は、すべてノイズとして扱われる。
あってはならないものだから。
マジョリティとマジョリティの戦いに、マイノリティが混ざれるはずがないのではないか。
それを、わたしたちは間違えた。
知らなかった。
まさか、新しい運動が、若者たちの運動が、マジョリティのもので、そもそもマイノリティを排除する前提で動いているとは。
だから、親切心で、忠告もしたし、男女差別の話もした。
だけど、彼らは、マジョリティだから、男女差別も他の差別もあった方が良いのだ。温存したいのだ。
彼らは「社会の中心」と自分で自称できる存在だから。
社会の中心だったら、差別は便利だろう。
差別をなくしたいと言うとき、それは、自分の問題としてではなく、「施したり、優しさだったり、自分が良い人間だと確認したいときだったり」するんだろう。
じゃなければ、自分たちを社会の中心だとはいえないはずだ。
うがちすぎだろうか?



わたしは、映画鑑賞が趣味で行けるときには週に一回くらいは行く。最近は音楽を聴くという趣味も増えた。外国の音楽が好きだ。勉強も好きだ。高校生には、古文現代文数学地学物理化学生物政治経済を教えている。英語も少しやっている。日本史と世界史の需要もあるから夏が終わったら勉強せな。自分のスキルが上がっていくのは楽しい。
教えることにもいろいろな段階があって、営業にもいろいろなやり方があって、しつこく売らなくても売るやり方が分かったりすると嬉しい。話聞いて、欲しいものを説明すれば買ってもらえるとか。聞き方にもスキルあるとか。

そんでも、わたしは社会の真ん中にはいない。
障害もあるし、結婚もしていない、子ども生んでいない、スーツ着る仕事じゃない、フルタイムじゃない。遊んでるみたいな仕事してる。そもそも女だ。日本において、女だと言うことは致命的なことだ。それに気づくことが、そもそも「マイノリティ」である証のようなものだけど。マジョリティなら、差別の存在に気づいたりしない。



そういうわたしは悲壮だろうか?悲壮なときもあるんだと思うけれど。


わたしたちは、社会の中心から立ち上がった、悲壮な運動は人を遠ざける、ってはっきり表現されているのを見ると、うえ、ってなる。
http://t.co/c5rtXFrNcq


誰が、社会の中心にいるか、決めたのだろうか、と考えると、「自分が中心だと思っている人たち」なのだし、その人たちから社会の外側に追いやられた身としては、「外側に行けと言われたから行った、そして、声を上げれば悲壮だから人を寄せ付けないと言われる」となるから、それは、厄介払いされていたんだ、と突きつけられる気持ち。悪いから悪いと言われる気持ち。これがスティグマか、スティグマをつけられる状況じゃなくて、スティグマがあるから、悪い、と言われること。なぜ、あなたたちがスティグマをつけたのか、ということは問えない。
スティグマになるようなことがあるから排除される、排除されるからスティグマがつく、その繰り返しの輪の中に閉じ込められて、マジョリティのマジョリティのためのマジョリティによる運動に加われない。
「スマホの前でぐじぐじしているな」と煽られるのはわたしではない誰か。最初からわたしは「頭数」とすらカウントされていなかったと知ること。
だから、わたしは、頭数という言葉に違和感を感じていたのだと思うこと。わたしは頭数になれない。カウントされていないし、自分もなりたいと思えない。


わたしに彼らの言葉が届かないのは、わたしがマジョリティではないから、彼らの言葉を届ける対象じゃないから。
でも、やっぱり、「悲壮」だとか「なにもしてない」とかなじられることはある。
そして、周縁に追いやられて、わたしの言葉が届くこともない。



マジョリティは今まで不満なんかもっていなかった。だから、自民政治が続いていた。今度は、マジョリティも困る法案が出た。だから、マジョリティが立ち上がった。マイノリティは最初からお呼びではなかった。そういうことだ。
マイノリティはずっと危機感を持って運動なり呼びかけなりをしていた。でもそれは「悲壮」だから、「こわばっている」から、人の心をつかまなかった。そうして、五キロ先にあった火事がここまで近づいたのだが、今、マイノリティは、五キロ先の崖の話をしていると、マジョリティに責められる。今はそんなことをしている場合じゃないと言われる。



マイノリティは炭坑のカナリアのように、危険を見つけるのが早い。それは弱いから、いろいろな差異が死に直結するから。死にたいとか死にたくないとかじゃなくて、ただ危険が来ると声を出さずにいられない。声を出したことで殺されるかもしれないので、もちろん黙る人もいるけれど。だから、運動や、ことあげは、いつも繊細な状況でなされてきた。



世界は美しい、とわたしも感じるときがある。夜明けの青さや、夕方の蒸し暑い風のにおい、汗をかく瞬間の爽快さ、緑の青さ、静けさ、騒がしさ、花火、川のながれ、四季の移り変わり。生と死が移り変わる瞬間を、わたしはこんなにも美しいと思っているのに、ふと、そこから滑り落ちて、生きていくことに価値なんてない、わたしはこの世に必要とされていないと、泣き出したくなる。



世界が美しい、その一点で、わたしは生きていけると何度も思うのに、わたしは必要とされていない、価値がない、認められない、と思うだけで消え入りたくなる。世界の価値を見つけるのは「わたし」であるはずなのに、他人がつける価値が「低い」から、わたしは消えたくなる。
わたしが決めることなのに。他人の価値を、自分が重んじるかどうかも自分が決めることなのに、わたしはそれをすんなり鵜呑みにしてしまうから、今だって、ときどき消え入りたくなるのだ。



マイノリティだろうが、マジョリティだろうが、世界が美しいと思えれば、愛があると思うことができれば、生きていけるはずだとわたしは思う。
価値があるとかないとか、決めつけるのはいつも自分を裁く何かで、厳密に言えば世界そのものはわたしが存在しようがしまいが気にしない。わたしはただ世界の美しさを感じていれば良いのだ。そして、美しさの一部なのだ。わたしが生きて死ぬこと、その移り変わりが美しさなのだから。



だけど社会は違う。世界とは違う。社会はわたしに価値づけをして、生きて良いかどうか、死んだ方が良いか教えてくれる。
マジョリティたちはたいてい点が辛くて「こんな目にあったらわたしなら自殺する」という。なかなか自殺するのは難しいけれど、そんなことは思いもせず、「自殺する」という。それは、わたしに向けられたとき「死ね」の変わった言い方に過ぎないというのに。そのことを分かっているのか分かっていないのか、はてさてどちらでもいいのか。とにかく、そういう言葉は来る。
マイノリティ同士も、味方というわけじゃないから、マイノリティもマジョリティもわたしを殺しにくる。言葉で、実行で、態度で。

でも、わたしは殺されない。言葉が来て傷ついても、まだ生きている。そのことに呆然とする。言葉の弾丸をくぐり抜けてまだ命があるのかと呆然とする。
わたしを撃つ人たちは、おもしろ半分で、何の気なしで、撃ったつもりもなくて、ただ、わたしが勝手に弱っていく様を見たり、そもそも気づかなかったりする。
マジョリティの魔法は、マイノリティの存在を見なくてすむ、感じなくてすむ、知らなくてすむ、というところにあるから。
たまに、邪魔だな、うるさいな、くらいには思うかもしれない。



邪魔だな。うるさいな、悲壮だな。こわばってるな。おしゃれじゃないな。洗練されていないな。
わたしたちが運動をするときには、「おしゃれで洗練されていて、誰もの耳に届いて、悲壮ではない、余裕のある」運動にしよう。彼らのようにならないようにしよう。彼らが入りたがったら、おしゃれじゃなくなるから、いない方が良い。
と、彼らが思ったかどうかは知らない。マイノリティに対して、そこまで深く思ったとも思えない。
排除は、もっと、カジュアルに、深く考えずに、感覚で行われるのだろうから、「あいつら、じゃまだ」とも、彼らは感じなかっただろう。




わたしが社会の中心から放り出されるのはあっという間だった。それまでだって、必死で捕まっていた。指をひとつひとつこじ開けられたらあっという間に吹っ飛んで周縁に放り出された。わたしの言葉は、誰にも届かない。底に沈んでしまって。深いところ。
そう思ったけれど、周縁にはたくさんの人々がいてその人たちは力を持たないから目立たないだけで、人数はたくさんいるのだと知った。



世界はやはり美しくて、生きるのに値する。
だから、わたしはマジョリティではないけれど不器用な言葉を使って言葉を紡ぐし、彼らが社会の中心から放り出されようが出されまいが、関係なく生きている。そして、彼らの運動の正体を見たけれども、彼らがうまくいくと良い。それが、わたしの幸せを意味しないとしても。
彼らは、家父長制を肯定しているし、男女差別をも肯定しているけれど。だから、彼らが変革したあとの世界もわたしには何も変わりなく体感されると予想される。保守という名の世代交代のための彼らの内輪もめには、わたしは関係できない。関係したくても、お呼びではないから。
彼らの闘争は、単に保守の世代交代だ。だけど、それでももう良い。
反戦、平和、という点では、希望があるから、わたしの美しいと感じる心を守るために、ひそかに見守りたいとは思っている。